第35話 やっとの本心

「分かっているのか、伊吹。あんた今から俺に犯されるんだぞ」

「……まあ」

「ならなんでそんなに普通なんだよ!!」


 頬を両手で強く挟まれて、顔をぐいと近寄らせた。


「伊吹が、離れていた間に経験豊富になってたとしても! 嫌だろう、無理矢理犯されるなんて!」

「確かにな。俺もそんなマゾヒストじゃない」

「なら、なんでだよ。俺が伊吹にしようとしている事って、伊吹にとっては、大した事ないのか? 離れている間、そんなに酷い生活だったのか? 俺の元に伊吹を縛るには、それだけじゃ足りないのか?」


 なあ、と、刹那はまるで子供がどうにもならない事を泣き喚くみたいに涙を流して、伊吹を見つめている。真っ直ぐに。触れる手は、昔と変わらず暖かい。


「どうしたら、ずっと側にいてくれる? もっと酷いことをしたらいいのか? それとも優しくしたらいいのか? 教えてくれよ、本当に。ずっと側にいてくれる事、それだけが望みって、何度も何度も言ってるだろう……!」


 本当に、変わらない。

 伊吹に縋って、駄々を捏ねて、伊吹が折れるのを刹那はずっと待ってる。本当に、それだけが望みなのだ。昔から変わらない、刹那の姿なのだ。


 本当に馬鹿だな、と伊吹は思った。自分に、刹那に、心から、そう思った。


「……なんと、いうか」


 伊吹は、考えながら、口を開いた。


「お前がさ、俺を迎えに来た時、あの時から、ずっと、お前とちあ、」


 千秋の名前を言いかけて、刹那の目がとんがったので、伊吹も慌てて口を噤んだ。


「……お前らに、俺、相応しくないなって、ずっと思ってた」

「…………」


 刹那は、涙を流したまま、伊吹の目をじっと見ている。


「だって、見窄らしかっただろ、俺。お前らには安宿を渡り歩いてた、とか言ってたが、それも、見栄で。余裕がない月末は、駅の構内とか、公園とか、コンビニとかで、夜を過ごす事も、多くて」


 刹那は黙って聞いている。何を考えているのかも、伊吹は分からなかった。


「一方でさ、お前らは着々とキャリア積んでいて、立派になっていて。嬉しかったし、応援もしてたけど、もう、別世界の人間なんだなって」


 なけなしの金で買った、千秋が社長に就任した、という記事が掲載された新聞。横には、刹那もいて、見た事がないくらい綺麗な愛想笑いを浮かべていた。記事は、当たり障りがないが、でも千秋のあまりの若さを疑問視する向きも確かにあって、お前らに2人の何が分かるって、記事にイラついたのを覚えている。


 その新聞は、大切に保管しようと思っていた。けれども、その新聞と着替えが入っていたバッグは、伊吹がほんの少し目を離した隙に盗まれてしまった。盗んだ犯人にとっては、ただの新聞紙でしかないから、きっともう、その新聞は捨てられてしまっただろう。


 でも、あの時からだ。

 あの時から、自分はもう千秋と刹那とは別の世界の人間なのだと伊吹は思い知った。僅かながらに抱いていた、2人との未来を諦めた。だから、それから必死になって逃げた。父から、自分が夢見ていた未来から、背を向けて逃げたのだ。


「なのに、お前らは、俺の為とかいって、親父の会社を……」


 ひどい状態だった。純資産もマイナスの債務超過で、粉飾だらけで、会社風土も悪くなっていて、名ばかり役員である籤浜の他の親族達もクソ無能のくせしてクソ面倒臭くて。一部事業とはいえ、どこに価値があるんだよこんな会社、と率直に思った。

 なんでここまでになるまで頑張ったんだよ親父、と父を呆れた。もっと呆れたのは2人だ。優秀な社員達を巻き込んで、経済的合理性のない事をして、反発だってあっただろうに、伊吹なんかの為に、計画を推し進めて。


「教えて欲しいのはこっちだよ!! 俺に、どこにそんな価値があるんだよ!!」


 伊吹は、突如、枷が無くなったかのように刹那に向かって叫んだ。腕を引っ張る。左手にまた痛みが走っても、もう手が折れようとも関係ないし、この場から逃げられるのならもう腕ごと無くなっても構わないと思ったほど、伊吹は暴れた。

 刹那は慌てた様に伊吹を押さえ込もうと腕を抑える。その行動が、より伊吹を惨めにさせた。


「なあ、他にいるだろうよ俺の代わりが! 俺よりも優秀で立派で! 今のお前らに見合う奴が山ほどいるだろ! なんで俺なんだよ!」

「い、伊吹、危ない、から!」

「いい加減にしてくれよ! なに、お前ら、俺を行方不明にするつもりなのか⁉︎ 監禁でもするつもりか⁉︎ そんな、犯罪なんてリスクある事していいと思っているのか⁉︎ たかだか、俺の為に!!」

「伊吹!」

「もっと、自分を大切にしろよ、今の自分の価値を考えろよ、なんで、なんで俺なんだよ……」


 なあ、と、伊吹は、涙を拭う事をできずに、ぐしゃぐしゃの顔を隠す事もできず、刹那を見つめた。


「なあ、お前さ、お前に媚びない俺が好きって、言ってたよな」

 

 伊吹、と、迷子の様な刹那の声が、伊吹の耳に入る。


「昔は、そうだったかもしれない。お前らの後ろにある犀陵なんて見ずに、お前らと付き合えたのかもしれない。でも、今はこんなだよ。今のお前らと俺を比べて! 勝手に劣等感だらけになってこんなに見苦しく騒いでる! その辺の面倒臭いお前らに妬み嫉みだらけの人間と一緒だよ!」


 なあ、と、伊吹は、刹那にもう一度、語りかけた。


「もう、今を見てくれ、刹那。昔を見るな。今の俺の姿を見ろ。お前の世話役をしていたとかいうフィルター全部取っ払え。なあ、今の俺の、情けない姿をよく見ろよ、刹那」


 笑う。さっき、刹那に無理して笑うのを止めろ、と自分で言ったくせに、伊吹は、無理をして笑う。

 刹那自身を見ず、開口一番、「犀陵の弟」と言い放ち、嘘を信じるにしたって久方ぶりの友人同士の再会に水を差した、あの空気の読めないクソ社長を思い出せ。

 あの時、伊吹は刹那に何をした? 嘘をついて、地方公務員だなんて耳障りのいい職業だと口にして、刹那を連れ去られるがままにした伊吹を、思い出せ。

 

 そんな男の、どこに価値がある。

 そんな男は、本当に今の刹那に見合うか?

 

 勝手に線引きをして、勝手に離れていく輩なんて、山ほど見ただろう。伊吹も、そんな男になってしまった。それだけの話だろう。


「なあ、刹那」


 刹那は、もう伊吹を見ていなかった。

 伊吹の上で、悔しそうに拳を固めて、唇を噛み締めて、俯いていた。


「俺を抱きたいなら抱けよ。いちいち、レイプとか犯罪とか騒がない」

「……」

「どうせ、騒いだ所で、誰も俺の事は信じない。信じても、皆お前に太刀打ちできないから、運が悪かったと思え、なんて言われるだけ。恩を仇で返す人間だと蔑まれるだけ。だから、抱けよ」


 伊吹は、身体から力を抜いた。

 

 伊吹もまた、刹那を見なかった。ただただ、上を見て天井を仰ぐ。腹立つくらい天井は綺麗で、また、伊吹を惨めにさせた。


 2人は、長い間、ずっとそのままだった。


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