第17話 キスに慣れた夜と誕生日

 刹那の帰りは、大体19時である。

 会社自体の終業は17時らしいのだが、色々仕事をしている内にそんな時間になってしまうらしい。


「ただいま、伊吹……」

「おかえり」


 刹那が帰って来たのは、19時半近くだった。クールビズ、というやつで半袖のワイシャツを着ているが、男物のワイシャツはカラーの部分だけボタンが外されていて、後は全部ボタンが留まっていて暑苦しそうだ。刹那もそうらしく、イライラした様子でボタンを外そうするが、逆にそのイライラが手つきを乱暴にし、何個もあるボタンを外せていない。伊吹はため息を吐くと刹那まで近寄ると、代わりにボタンを外してやった。


 過保護すぎたか、と刹那を伺うが、刹那は嬉しそうにしていた。


「外、あついぃぃぃ」


 言葉とは裏腹に、ワイシャツを脱ぎ床に落としてインナー姿になった刹那は伊吹に抱きついて甘えてくる。汗の匂いがするが、若いからかそんなに悪臭、と言う感じはない。昼、叔父にやられたみたいに汗で湿った頭をわしゃわしゃとなぜてやると、気持ちよさそうに喉を鳴らし、伊吹を抱きしめる力が強くなった。


「伊吹、今日も俺、頑張った」


 伊吹の腰に両腕を回して、肩に甘えていた刹那の頭が持ち上がった。そして、その言葉。

 熱い視線で強請られる。


「……ここのところ、毎日だな」

「会社にいる分、伊吹と離れ離れだから。伊吹も一緒に働けばそんな事なくなる」


 最近、なぜかこういう発言が多くなった。いい加減、断る身になってほしい。


「どうだか。一緒に働けば、何か仕事を終える度に強請られそうだ」


 伊吹のため息まじりの言葉に刹那は否定せず、早く、と目で訴えている。仕方なく伊吹は刹那の赤くなっている頬に手を当てた。そして、そっと顔を近づける。


 唇と唇を合わせた、児戯のような口付け。けれども、刹那は嬉しそうに微笑み、また伊吹の身体を強く抱きしめた。


「ほら、夕飯の準備をするから、お前は風呂入ってこい」


 ぽんぽん、と背中を叩くと、名残惜しそうに刹那の体が離れる。そしてまた、今度は刹那から口付けをされた。


「行ってくる」

「ああ」


 そうして、刹那はワイシャツを拾い上げ、風呂場へと向かって行った。












 いつも通り、ダイニングテーブルで向き合って夕食を食べる。今日のメニューは、白米はあるが、ロールキャベツとサラダという洋食だ。時期を見るとそろそろ素麺等も出してもいいかもしれない。……ただ、その辺りの時期だと、伊吹はもう日本にいないかもしれないが。


「伊吹」


 黙々と食べていた刹那は、意を決したように、顔を上げた。頬にはご飯粒が付いている。それが付いている箇所につんつん、と自分の頬を指して伝えると、慌てた様にご飯粒を取った。


「なんだ?」

「……今月、誕生日だろう」

「誰のだ?」

「あんたのだよ伊吹」


 珍しく呆れた様な刹那に、伊吹の箸が止まった。え、と頭が真っ白になる。思い出すのは今日叔父と一緒に取りに行ったパスポートの表記。確かに、今月は伊吹の誕生月だった。誕生日がくれば、伊吹はとうとう29歳となる。


「……そういえば、そうだった」


 伊吹は、目を伏せた。

 また、何もできていないのに、一つ歳をとってしまった。これから留学するとはいえ、ここ数年、誕生日を迎えた、と気がつく度に暗い気分になっていたので、今状況が変わっても素直に喜べなかった。


「その、俺はあまり気の利く方じゃないからはっきり聞くが、何か欲しいものとかしてほしいことはないか?」


 できる限り用意する、という刹那に、伊吹は箸を止める。何を受け取ろうか考えていたのではなかった。どう断ろうか考えていた。


「別に気にする必要はない。この年だ、別に誕生日を迎えたからって特別な感慨はない」


 伊吹は、そう言って箸を進める。自分の皿の、上手く巻けず煮込む内に崩れてしまったロールキャベツに箸を入れる。


「……一緒に住んでた頃は、千秋が金を出して、一緒にケーキを買いに行っただろう」

「……いいと言ったのに、お前らは高級ケーキ予約して……。ネームプレートまでついていたな。恥ずかしかった」

「俺たちがしたかったんだ」


 刹那は、まるで昔に戻ったかの様な顔で頬を膨らませた。子供の様だ。可愛いとは思う。


「昔は昔だ。今は今。お前もこの歳になればわかる」

「千秋は誕生日に色々と贈り物を貰っているぞ」

「あれぐらいの立場だと、社交辞令もあるんだろう。家に行けば、開けられてない贈り物とかあるんじゃないか?」


 伊吹のその言葉に、刹那は何も言えない、という感じで黙り込んだ。


「……確かに、取引先から送られたどうでもいいワインとか、ほとぼりが冷めたら売ったり、誰かにやったりしている」

「だろう?」

「でも、近しい社員からのは、開けて、使ったり食べたりしてる。俺からのも」


 じとり、と刹那は伊吹を睨んだ。


「なにか、ないのか?」


 そう言われて、伊吹は困ってしまった。

 

 伊吹の海外渡航のハッキリとした日程は既に決まっている。それは思い返せば伊吹の誕生日の翌日だった。刹那と千秋から黙って離れる日の前日に、誕生日祝いをしてもらう程、図々しくはなれないし、こいつらの金の使い方は色々と信用ができない。


「本当に何もしなくていいんだ。千秋にもそう伝えてくれ」


 どうせ、この唐突な誕生日の探りは千秋からの指令でもあるのだろう。だから伊吹は先回りしてそう言った。


「あまり、誕生日嬉しくないんだ」


 伊吹は、本心を少し大袈裟に表すように、箸を置いて目を伏せた。


「今まで、何にもなれないまま歳を重ねたのを実感する日だったから。だから、いらない」


 ここまでいえば、引き下がるだろう。

 伊吹は、まだ残った夕食を見下ろして考えた。気分が悪くなったから、いつもは完食している食事も残している。うん。そういう体でいこう。


「お前達は何もせず、普通に過ごせ。俺もそうする」


 伊吹は、席を立った。


「風呂に入ってくるから、いつも通り食器はキッチンに置いておいてくれ」


 いつもの声かけ。これで、この話は終わりだ、と伝わるだろう。


「ま、待ってくれ!」


 しかし、刹那はがたんと立ち上がって、背を向ける伊吹に声をかけた。


「……なんだ?」

「ち、千秋は、伊吹が遠慮する様なら、高級ホテル最上階でシャンパンタワーをする、と言っていた!」

「刹那、歌舞伎町じゃないんだぞ」


 伊吹は、呆れた様に盆を持ったまま振り向いた。


「しかも呼べるだけの芸能人や企業家も呼んでやる、と」

「刹那、それでまかせだよな?」

「俺たち3人の友情の軌跡ムービーも作ってやると」

「千秋はそんな事を言ってないよな?」

「……………………」

「否定しろ!! キャバ嬢やホストのバースデーイベントじゃないんだぞ!!」


 伊吹は、くわっと表情を変えて叫んだ。


「その、流石にそこまでしたら、伊吹が嫌がるし、そんな招待客なんて呼んだら俺達もそっちの相手をしなくちゃいけなくなる。それは嫌だ。だから、何か出してくれ伊吹」

「千秋に俺の誕生日祝うのを諦める様に説得しろ」

「俺だって久々の伊吹の誕生日祝いたいからそれは断る」


 ぶんぶんと刹那は首を振った。


「伊吹。千秋はやると言ったらやる。だから千秋を止める為にも、と考えて!!」


 あー、と、伊吹は、天井を仰いだ。

 これは、完全に千秋の手のひらの上だった。


「……ケーキ」


 暫く、その場で立ったまま考えて、出てきたのがこれだった。


「うん」

「それでいい。ショートケーキで頼む」

「……他には?」

「思い付かない」


 伊吹は、首を振って正直に答えた。


 逃亡していた時は、誕生日なんてほとんど意識してなかった。誕生日以外だと、盆や正月なんて、大体どこも休日で、バイトもそもそも募集していない事もあったから金を稼げないせいで死活問題に頭を悩ませていた。その辺りは腹を空かせていた記憶しかない。


 ホテルなどはそういう時もバイトがあったかもしれないが、1人で逃亡していた時、泊まる安宿によっては風呂がないことも、付近に銭湯もない事もあったから、身なりを気にしなければならないバイトは応募できなかったのだ。本当に初めの初め、千秋に見つかった時ぐらいしか、ホテルのバイトはしていなかった。

 

「焼肉、とか」


 刹那は、首を横に傾げた。

 出されたその言葉に、伊吹は首を振る。 


「そろそろ胃がもたれる年齢だ」

「千秋はそんな事は言ってないぞ」

「あいつは丈夫なんだ」


 それは流石に否定できないらしい。刹那は、「前、九州に一緒に出張した時、濃厚豚骨ラーメン、ハシゴに付き合わされた」という情報を教えてくれた。育ち盛りの中高生でもキツいんじゃないかそれ。刹那もゲンナリとした様子だった。

 千秋が中高生だった時、千秋とラーメンを食べる、という話になると、野菜デカ盛りラーメンか、濃厚豚骨ラーメンの二択だった事を思い出した。その時もスープまで綺麗に完食していた。一軒に飽き足らず、ハシゴは当然でもあった。まさか、胃の調子が、その頃と変わっていない……? お互い、三十路が近いのに?


「寿司は?」


 ある意味恐ろしい想像をしていると、また刹那から提案される。


「回転寿司、なら」

「……」


 刹那は、思い切り眉間に皺を寄せた。


「俺が嫌だ」


 刹那は、首を振った。


「あんな、誰が触れたのかも分からないレーンに流れてくる寿司とか、嫌だ」

「最近は流れない回転寿司もあるぞ。電車に乗ってくる」

「それ回転寿司か?」


 回転寿司というなら回転寿司なのだろう。

 しかし、刹那は頑なに回転寿司は嫌だ、と主張している。こういう所はお坊ちゃんだな、と思うが、回転寿司店に謝れ、と言いたいぐらい頑なだった。

 

「近くに、鉄板焼きの店があるな。チェーン店だが」

「………………」


 伊吹の遠回しの提案に、また刹那の眉間にぐい、とシワが寄った。


「嫌なのか?」


 チェーン店が嫌なのだろうか。回転寿司が嫌だというし。


「…………伊吹がサトウコウイチだった時、連れてかれたのが鉄板焼きの店だった」

 

 伊吹は、刹那を直視できず、そっと顔を逸らした。


「鉄板焼きは、もう嫌だ」


 刹那は、顔を逸らした伊吹でも分かるくらい、伊吹を睨んでいる。


「……すき焼きはどうだ」


 声色の調子はまだ悪かったが、ひとまず刹那は話を続けてくれた。


「肉は胃がもたれると言った」

「ふぐ」

「食べた事ない。誕生日にどう転がるか分からない挑戦はしたくない」

「……カニ」

「冬じゃないぞ」

「夏が旬のカニもいる」


 伊吹は、キッチンの水盤に自分の分の食器を置く。残した料理は捨てて、食器を洗う。刹那は席につき、まだ残る自分の分の夕飯に手をつけた。


「毛蟹とか、花咲蟹とか。ああ、ワタリガニもそうだった」


 よくここまでカニの種類が出てくるな、と伊吹はこればかりは素直に感心した。毛蟹は聞いたことあるが、後の2つは知らないカニだった。


「カニ好きなのか?」

「普通だ。でも母さんが好きなんだ」


 中学の授業参観の時、千秋と刹那の母を見た事がある。なんでもハーフという話で、2人の母らしくとてつもない美人だったがどこかキツめな印象を受ける人だった。息子2人はどちらも母似だが、どちらかというと若干、千秋の方が似ている。

 その2人の母親が無心にカニを食べる姿を想像するが、うまく映像が浮かばない。


「カニ鍋。伊吹はどうだ?」


 刹那は、伊吹に視線を向ける。少し悩むが、何か案を出さなければ千秋発案の趣味の悪い誕生パーティーが開催されてしまう。3人で収まるうちに、伊吹も応じた方がいいだろう。


「……わかった」


 伊吹は、頷いた。刹那も嬉しそうに笑い、安心した様にまた夕飯に向き合った。


「ケーキとカニ鍋な。千秋に伝えておく」

「そうしてくれ。お前の提案は断ると、強く伝えておいてくれ」

「それは言われなくても」


 刹那は、力強く頷いた。今回ばかりは頼もしかった。


「伊吹」


 風呂に行こうとしていた背に、刹那の声が投げかけられる。振り向いた。


「来年の誕生日は、ちゃんと覚えていてくれ」


 刹那の真っ直ぐな視線。それにちゃんと向き合う事ができず、伊吹は前を向き直して、「ああ」と、適当な返事をした。

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