第18話 風呂場にて物思い
女性が付き合っている男性の浮気を勘づくきっかけは、大体些細な事からだ。例えば帰りが遅くなったり、急に部屋が綺麗になったり、やたらと饒舌になったり、金遣いが荒くなったり。
女性が敏感なのか、男が鈍感なのかは分からない。でも、一言で纏めれば「普段と違う行動をとる」から怪しまれるのだ。
何か違う行動をとるのなら、それを長く続けて、相手が気にしなくなるまで待てばいい。問い詰められたら、相手が迂闊に触れられない所――相手が知らない過去とか――を持ち出して理由づけ。でも、あまり頑なになるとまた疑われるから、「そこまで言うなら止める」と自分から譲歩を見せるのもいい手段だ。
つまり、伊吹がスマホを風呂場まで堂々と持ち込む事に、刹那が何も言わなくなったのはそう言う事からだった。とはいえ、刹那は自分よりも若いとはいえ、こんなのに騙されて大丈夫だろうか。昨今は女性も浮気不倫は当たり前と聞く。刹那は結婚はしてもしなくてもいい、と言っていたが、いつか騙されて心に傷を負わないかが心配だ。それに、ビジネスの世界だって厳しい物だから、直感は磨けるだけ磨いた方がいいだろうに。
「……俺が心配しても、仕方がないか」
浴槽に浸かりながら、呟く。
千秋は口では素直ではないが、刹那の事を大切に思っている。刹那だって、そんな素直ではない千秋の思いを素直に受け取って、兄を尊敬している。あの2人が揃えば、刹那の若さ故の甘さなんて、問題ではないだろう。いちいち伊吹が心配し、手を出す範囲じゃない。それに、自分が日本を離れる日は確実に迫っているのだから、心配したって仕方がない。
伊吹は、はー、と息をつくと、浴槽の半分部分に置かれた、浴槽の蓋の上のスマホを手に取った。
本当は、伊吹だって電子機器の大敵の湿気だらけの風呂場なんてスマホを持ち込みたくはないが、刹那が家にいる間も堂々と調べ物や叔父と連絡が取れる場所は今では風呂場しかなかった。自分の部屋も、刹那は一度、共に寝るのを許したらほぼ毎日やって来るようになった。あまりの頻度に、買った海外に関する雑誌は既に捨ててしまったくらいだ。
まさか伊吹の海外行きを察しているのだろうか、と考えるが、伊吹を抱きしめながらスヤスヤと眠る刹那を思い出して違うか、と首を振る。出会ったばかりの頃でも、一度許可を出すと、どこまでも入り込んでくる様な奴だった。おどおどしているのか図々しいのかどちらかにしろ。同居時代、まあいいか弟みたいなもんだし、と受け入れていた自分にも、今思えば大概問題があったが。
そんな事を考えながら、スマホをいじる。メッセンジャーアプリを起動して、叔父とのトーク画面を出した。
『出発する前日、2人と誕生日を祝うことになった』
『誕生日? お前のか』
叔父は、程なく反応してくれた。
『おじさんは覚えてくれてたんだ、誕生日』
『まあな。実を言うと、出発する日になにか餞別がてらやろうと思っていた』
『ありがとう。楽しみにしてる』
ぽちぽちとスマホをいじる。また、ピコンと通知の音がした。
『そっちの誕生日祝いの日程をずらすのは難しいか?』
伊吹は、少し考えた後、文字を打つ。
『考えてみれば、チャンスかも』
『どういう事だ』
『単純な話だよ。酒の力を借りて、2人に深酒をさせて朝寝坊させる。その隙に家を出ればいい』
『まあ悪くはないな』
程なく、叔父からまたメッセージが来た。
『それなら、俺も案を出してやれる。酒の席での立ち振る舞いは、俺の方が経験値あるだろう』
そうして叔父は、酒宴に慣れない伊吹でも飲みやすくアルコール度数も低い酒とそれとは正反対の酒とか「自分は水を飲んでいるのに他の奴にそれを悟られない方法」だとか「強い酒を勧められた時のうまい躱し方」とか「飲み比べになった時の凌ぎ方」などなどを連続して教えてくれた。
なんというか、叔父のサラリーマン人生の大変さが伊吹にまで沁みた。叔父の体験談じみた助言メッセージを見てくると、深酒をさせる、という自分の発想に短絡さを感じる。深酒作戦はやめておこう。
というか、父家系は皆酒が強いと思っていたのだが、叔父のこの酒宴ノウハウを見ると、叔父はそこまで酒に強くはないのだろうか。
『参考にするよ、本当にありがとう』
できる限り、叔父の人生に敬意を込めてそれを打つ。ぴこん、と、またスマホがなった。
『最後の最後でドジを踏まない様に気をつけろ。そこさえ凌げば、お前は自由の身だ』
その言葉に、一瞬だけ、伊吹の指が止まった。
『分かってるよ、おじさん』
『ならいいんだ。あまり長く話していると怪しまれるから、今日はこれで終いにしよう。また明日な』
『うん。また明日』
そうして、叔父とのやり取りは途絶えた。
伊吹は、また風呂の蓋の上にスマホを置いて、両腕を浴槽の縁に置き、天井を仰ぎ、はー、と息をついた。
自由の身。それは、伊吹が逃げている間、ずっと望んできた事だった。けれども、今それが目の前に見えている状況で、どこかこれでいいのか、という靄が目の前に掛かっている。
理由は分かっている。
『来年の誕生日は、ちゃんと覚えていてくれ』
刹那の、当たり前の様に未来を信じた真っ直ぐな瞳。
それを思い出すと、先の未来にかかる靄が濃くなった。
―――――せめて、見返りを要求してくれたらいいのに。
そうすれば、もしかして自分は今頃、刹那と千秋の側で働いていたかもしれない。
そうすれば、自分は、今も堂々と刹那の側にいたかもしれない。叔父の提案を断っていたのかもしれない。
でも、あの2人が自分に要求するのは、ただ側にいてくれ、という一点だけ。それに縋るのは、恐ろしすぎた。
だって、自分はあの2人の為に何が出来るのだろう。ずっとずっと、自分の為に逃げていた人間が、他人の為に出来ることなんてそう多くない。家事とか、弁当とか、刹那が甘えてくるのを笑って、甘やかしてやるくらいだ。
刹那が、伊吹に恋愛感情を抱いているのは分かっている。なら、身体を要求してくれればよかった。そうすれば、自分は刹那に自分の身体ぐらい簡単に明け渡した。それくらい要求できる権利が、あちらにはある。
でもあいつが求めるのは他愛のない触れ合いだけだ。最初はキスもそりゃ慌てたが、ほぼ毎日、朝と帰宅と寝る前に要求されている内に自分もすっかり慣れてしまった。――口付けを交わす度、微かに開いている唇に、あいつは気がついているだろうか。
自分の立ち位置は常に不安定で、誰かの温情に縋らなければ保てない位置。そんなの、恐ろしすぎる。もしも2人が、伊吹を飽きて、他の誰かを求めたら、伊吹はどうなる?
また、誰かのスペアにしかならないのかもしれない。
また、誰かの意思一つで自分の思い描いていた未来が崩れてしまうかもしれない。
また、何かのきっかけで自分の信じていたものが壊れてしまうかもしれない。
また、明日が来る事に怯える生活に戻ってしまうのかもしれない。
また、惨めで何にもならない生活が待っているのかもしれない。
また、また、また。
それらを思うと、例えそれが好意によるものでも、2人の手を取るなんて出来るわけがなかった。
自分から逃げた方がずっとマシだった。そちらの方が、ずっと怖くなかった。逃げて、条件付きで自分を受け入れてくれる場所を見つけて、そこにいればいい。そっちの方が、恐ろしくない。もしくは、ずっと1人でいたらいい。
――離れなくちゃ。
伊吹は、ばしゃりと湯船の湯を自分の顔に思い切りかけた。
「……出よう」
物思いは終わりにして、風呂から出よう。
そろそろ刹那が呼びにくる頃だ。怪しまれないように、ドジを踏まないように、気をつけなくては。
伊吹は、浴槽から立ち上がる。ふと風呂場の鏡を見ると、変わらず貧相な自分の体が映っていた。こんな体に、刹那は欲情するのだろうか。抱く方にしろ、抱かれる方にしろ、痩せすぎではないか。
正直、伊吹は刹那を抱ける気がしない。今まで、男に突っ込むとか、別世界の事と思いすぎて、勃つ気がしない。後、多分、刹那は未経験だから、こう、男として、後ろを先に奪うのは、可哀想だな、と思ってしまう。だから、抱かれる方が気は楽だ。一応、年上で、伊吹は、一応、童貞じゃないから、自分の経験を教えてあげる様にリードもできるだろうし。伊吹に突っ込まれたい、ということだったら……、少なくとも最初は、そういう薬を、飲むしかない。勃つような、薬を。
「……何を、考えているんだよ」
なんか変な事を考えている自分に呆れるが、でも、思考は止まらない。
薄い下腹部に手を置いた。もしも、自分が女であったら、こうは考えなかったのだろうか。自分を救ってくれた礼にと、千秋か刹那どちらかと結婚をして、子供を産む役割を果たしていたのだろうか。
「馬鹿なのか、俺は」
とうとう湧いてきた自己嫌悪に、伊吹は頭を振った。
たとえ伊吹が女で、2人のうちどちらかと結婚して子供を産んだとしても、そんな打算の為に生まれた子は、幸福になれるのだろうか。だって、ドラ息子は本妻の子だったが、伊吹というスペアに居場所を奪われそうになっていた。伊吹への苛烈ないじめは、その焦燥や妬みも理由だったのだと、今なら分かる。
それに、なんの後ろ盾のない女が結婚して子を産んでも、その子もその女も幸福になれるわけじゃない事ぐらい、伊吹の生母を思えば分かるだろうに。
結局、どう転んでも伊吹はままならないのだ。
伊吹は、それを自覚すると深くため息をついた。そして蓋の上のスマホを拾い上げると、風呂場から出て行った。
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