第23話 逃亡は自分のため
刹那は、自分の車がある場所まで、力強く手を握ったままだった。奥にある、人通りの少ない場所。そこに停めた刹那の高級車に、乗れ、と言われて助手席に座る。刹那も運転席に乗り込み、エンジンをかけた。このまま発進するのでは、と思ったが、刹那は車を動かさなかった。
「刹那?」
「伊吹、もう一度聞く。あの男と何を話していた?」
刹那は、硬い声音で、怖い顔で、伊吹を見つめていた。
「なんで、そんなに気になるんだ?」
「あの男、伊吹の手をただならぬ様子で掴んでいたし、籤浜以外の親戚が近くにいるのも初耳だ。しかも、俺に対して悪意を隠さなかった」
刹那は、腕を組んで、眉間に皺を寄せて、イライラとしていた。車内の空気が、重い。
「俺にも千秋にも言えない話か?」
刹那は、伊吹を鋭く睨んでいる。瞳が、深い。
「言っておくが、逃げようなんて思わない事だ。エンジンをかけたから、助手席のドアロックはもう作動している。俺がそれを解除しない限りは開けられないぞ」
そう言われて、伊吹は助手席のドアに手を伸ばした。確かに、開かない。なるほど、だからエンジンを初めにかけたらしい。海外渡航を、勘付かれているのか? と心臓が鳴った。
「伊吹、答えてくれ」
刹那は、伊吹の疑問を他所に、真っ直ぐに伊吹を見つめていた。
「……その」
伊吹は、なんて答えようか考えながら、口を開いた。
「叔父は、籤浜の事があるから、金持ち全体に対して、その、偏見を持っているんだ」
「偏見?」
「ああ。俺は婚外子だから、籤浜の中でも、あまりいい扱いとは言えなくて」
養育費は渡されたし、大学までは出してもらえたが、と付け加える。父の会社の厳しい状況を知った今、それがどんなにありがたいことか、よく分かる。
「本妻の子からはかなり虐められたし、それを庇ってくれる大人もほとんど居なかった。それに、叔父はずっと不信感を持っていたんだ」
嘘をつくときは、本当の事を混ぜると、相手からは見抜かれにくい。後から嘘がバレそうになっても、本当の事を交えて話せば、その時も対処がしやすい。だから、伊吹は嘘と本当を織り交ぜながら話す。
「それで、まあ、その、金持ちはみんな碌でもないに違いないと、思っているから、お前にもあんな態度だったんだ」
「……成程な。それは分かったが、一体何を話していたんだ? 真剣な話だったんだろう」
「ええと……」
伊吹は、目を泳がせた。
演技半分、本気半分だった。
「お前は、怒るかもしれないが」
「……ああ」
「早く、お前らの側から離れろ、と。何か企んでいるに違いない、と。……お前らの事が、その、信用できない、と」
ぐい、と刹那は眉間に皺を寄せた。
「メディアに、籤浜の会社の酷い有様についての情報が、もう流れているだろう。それも見てるから。叔父は経営者じゃなくて、サラリーマンだから、あまり、経営の事は、詳しい訳ではないし、そんなM&Aとか、メリットのない事をする奴らは、危ないと」
刹那は、眉間に力を入れたままだった。
伊吹は、半ば本気でしどろもどろに語りながら、そっと刹那の様子を伺う。刹那の怒りに染まっていた目が、随分と大人しくなっていた。勿論、疑われていい気はしていないようだが、理由が分かって少し落ち着いたのだろう。
「……理由は、分かった」
刹那は、ため息混じりにそう言った。
「もしかして、前に1人、育った実家に戻りたい、と言ったのもあいつの影響か?」
それは違うが、そうだ、と言っておいた方が、収まりがいい。
「……そうだな。俺は、お前たちの事を立派だと思っているし、碌でもないなんて思ってない。でも、いつまでも側にいては、と思ったから」
「伊吹」
刹那は、真剣な顔で伊吹の膝の上の手を、強く握った。
「本当に、信じてくれ。ただ、側にいてくれるだけでいいんだ。本当に、それだけが望みなんだ」
「……分かっている」
「確かに、籤浜の会社の事は、経済的合理性はない。理由はあるが、そんなの全部後付けだ。でも、何もしなかったら、伊吹はずっと逃げたままだった。俺の側に、いてくれなかった」
『俺の側』
まただ。刹那は、何度も何度も、その言葉を繰り返して、伊吹を縛ろうとしている。
そんな価値のない伊吹を、そんな言葉で縛ろうとしている。
「伊吹が欲しいだけなんだ」
刹那は、涙目で伊吹に縋った。まるで、刹那が大学の時に戻ったみたいに。
若さも、地位も、金もある刹那が、何も持っていない伊吹に縋る。もう届かないほど高い場所にいる刹那が、地底の底の伊吹に向かって、その手を必死に伸ばしている。
一体どれだけの金と時間と労力をかけたのか。それほどの価値が、自分にあるというのか。たくさんの景色を見ただろう、たくさんの価値のあるものに触れただろう。でも、伊吹にその何でも持っている手を伸ばすのか。
――そんなの、ただただ惨めなだけだって、分からないか?
「……ああ」
だから、伊吹は嘘をついて、刹那に微笑んだ。
「お前の思いはわかってるよ」
「本当に? 本当に、分かってる?」
「分かってる。そうでなきゃ同居はしてない」
伊吹は、縋りつく刹那の肩を掴んで、そっとその体を起こした。
「叔父の事は悪かった。すこし、カッとなりやすい人なんだ」
「……あいつ、嫌いだ」
「俺にとっては、優しい叔父なんだよ」
刹那の真っ直ぐ過ぎる言葉に、伊吹は苦笑した。
「俺からも叔父を説得するから、お前は気にしないでくれ。なんとか納得させる」
「……どうだか。すごく頑固そうだったぞ」
「時間をかければ、なんとかなる」
刹那は、肩を掴む伊吹の手に、自分の手をそっと重ねた。
「もし、どうしても頑固だったら、俺を呼んでくれ。一緒に説得する」
「……さっき、叔父に対して失礼な態度をとっていた奴が何を言っている?」
「ちゃんと謝る。経営の事に詳しくないのなら、M&Aの事も詳しくないだろ。ちゃんと説明するから」
刹那は、昔とは違う、真っ直ぐな目を、伊吹へと向けた。
「伊吹が、俺の側にずっといてくれるよう、俺、頑張るから」
昔の刹那だったら、叔父みたいな人間と目を合わそうとすらしなかっただろうに。
やり取りは、全部伊吹任せにして、背中に隠れたままだっただろうに。
震える手で、伊吹に縋ってきただろうに。
でも、そんなのは昔の話なのだ。離れている間に、刹那は変わった。成長した。立派になった。――もう、頑張る必要はないぐらい。
「……そうだな。その時は、頼む」
だから、伊吹は嘘をついた。
だから、笑みを浮かべた。刹那の頭を撫ぜた。浮かぶ涙をそっと拭った。
「ずっと、側にいるよ」
――――絶対に、お前から逃げてやる。
自分を抱きしめてきた刹那の腕の中。伊吹は、ただ、それだけを思っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます