第3話 刹那との再会。 車の中
カーラジオからは、伊吹でも聞き覚えのある曲が流れてきた。
簡易宿泊所の前で刹那と共に車に乗り込むことになった伊吹は、膝をじっと見つめながらその曲を黙って聞いている。
1人で逃亡してから、大方の娯楽なんて接する暇が無かった。だから最近のヒットソングもほとんど知らない。たまに立ち寄るコンビニやスーパーの有線で流れているのを、微かに知っているだけだ。けれども、今カーラジオで流れるこの曲は、聞き覚えがあって、随分と懐かしく感じる。そんなに、この曲は昔、というわけではないのに、随分と昔の曲のように感じてしまう。きっと、それだけ変わってしまったからだろう。自分か、今隣にいる男かは分からないが。
「伊吹」
声をかけられて、助手席に座る伊吹は、ゆっくりと運転席へとーーハンドルを握る刹那へと、顔を向けた。
「もしかして、眠いのか。ずっと俯いてる」
音楽を消そうか、と気を利かせた運転席の刹那に、伊吹はゆっくり首を振った。
「考え事を、していただけだ」
伊吹は、少し嘘をついた。
しかし、刹那はその嘘に気づいた様子はなく、そうか、と首を傾げている。いっそ無垢なその様子に、かつてを思い出す。少しだけ、目頭が熱くなった。
考えていた、というよりは、思い出していた。そして落ち込んでいた。
ちらりと横目で伺う、運転をしている刹那は、誰がどう見ても立派な、育ちのいい、美しいともいえる顔立ちの、エリートな若者だった。対して自分は、辛うじて汚くはないが、そろそろ捨てた方がいいぐらいの着古した服を着た、底辺の存在だった。
かつて、刹那と初めて会った頃は、自分もある程度は小綺麗にしていた。けれども、すぐ側に誰もいない、たった1人の逃亡生活は、身なりに気を使う余裕など最低限しか許されない。
交差点の赤信号が青信号に変わる。そうして、2人の乗る車はまた動き出した。
車に乗り込む、数十分前のことだ。
車から降りた刹那の姿を見た途端、伊吹の体はまるで魔法にかけられたようにピタリと動かなくなった。だから、もう手がつけられないくらい怒鳴る管理人の相手をしていた刹那に、伊吹が見つかってしまうのも、仕方がない事だった。
固まって動けずにいた伊吹に向かって、刹那は駆け出した。そして、昔よりも大きくなった体で、伊吹を力強く抱きしめた。
いい匂いがした。きっと香水の匂いだった。記憶の中の刹那は、香水なんて全く知らない男だったはずだ。着ているスーツも随分と似合っている。思い出した。このスーツ、刹那の兄である千秋が大学入学祝いに、と刹那に誂えたスーツだ。けれども、金かけ過ぎたせいで刹那はすっかりと萎縮してしまい、「どうせ似合わない」と試着すらもグズグズとしていた。千秋と一緒に、脅しながら褒めながら宥めながら、大学の入学式にスーツを刹那に着せた記憶を、思い出していた。
『伊吹、よかった......! 本当に……!』
刹那は、感極まった様子で伊吹の体を抱きしめる。伊吹は、何がなんやら分からなかった。記憶の中の伊吹に頼り切りだった刹那と、今目の前にいる立派に成長した刹那が、頭ではわかっていても、心の中でどうしても一致しなくて、ただただ、呆然と抱きしめられるがままになっていた。
結局、もう怒り狂って暴れ出しそうな管理人に追い立てられるように、刹那が乗っていた車に伊吹も乗り込んだのだ。
「……」
助手席の窓から、景色を見る。随分と景色が流れる速度が早く感じる。
「そ、その」
伊吹は、うまく動かない口をなんとか動かして、声を出した。
「真っ直ぐいった、信号を超えた先のコンビニ。そこで降ろしてくれ」
「……は?」
刹那は、思い切り目線を外して伊吹を見た。つい、「前!」と大声が出てしまう。慌てて刹那も前を見た。いくら直線道路といっても、目線逸らしは危なすぎる。
「何を言っているんだ、伊吹」
「いや、だから、降ろしてくれ」
「なんで」
刹那の一瞬で不機嫌になった硬い声音に、少したじろいだ。いや、でもとにかく車から降りなければ。
「腹が、減って」
下手な言い訳だな、と我ながら思った。やばいバレる、と思った途端、ぐー、と、自分の腹から音がした。これは、運がいいのか悪いのか自分の体ながら分からない。確かに昨日の昼から何も食べていないとはいえ、いくらなんでも情けなさすぎる。
いくらなんでもタイミングの良すぎるその音に、刹那は目を見開いた後、ははは、と声をあげて笑い出した。
「食欲はあるみたいで少し安心した」
車は交差点の赤信号で止まった。
「でも、随分と痩せた。ちゃんと食べているのか」
「……まあ」
食べているといえば、食べている。食費は常に切り詰めているから、抜くことも多いが。
刹那は、少し安心したような笑みを自分に向ける。それを、伊吹はなんでか直視できず、すっかりと色褪せたTシャツを隠すように、羽織っていた上着のチャックを閉めた。
「で、でも、今日はまだ何も食べていない。だから、コンビニで食料を買いたいんだ」
この理由なら、恐らく不自然さはないだろう。
このまま、コンビニについた後、自分は走って逃げる。まだこの辺ならば、土地勘も自分の方があるし、こいつは車があるから、細い裏道を使えば、きっと撒ける。靴も、よく磨かれた本革の革靴だから、伊吹の履き慣れたぼろスニーカーと比べて走りにくい筈だ。だからきっと、逃げ切れる。
伊吹は、そう心に決めると、ぐ、と自分の右肩に掛かるショルダーバックの紐を握りこんだ。
信号は青になった。車は動き出す。伊吹の心臓が鳴る。
「ほら、これ」
いきなり目の前に差し出されたのは、ビニール袋だった。頭が真っ白になって、素直に両手を出して受け取ってしまった。
「え……」
ビニール袋は、伊吹の両手の中に収まる。中には、この辺には無い、高価格帯のスーパーのシールが貼られているおにぎりに、お茶に、お菓子に。
「このまま東京に戻るから、先に軽食は買っておいた。俺のことは気にせず、食べていい。それ、好きだったよな?」
刹那は、嬉しそうな笑みを浮かべたままだ。伊吹が呆然と見つめる運転席の窓から、ちょうど、コンビニが通り過ぎる。思わず、あ、と声が溢れてしまった。
「眠っていても構わないぞ、伊吹」
刹那は、そうして、穏やかに笑っていた。刹那は、それ以上何も言うことはできなかった。
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