第2話 5年後。
――刹那。
籤浜伊吹は、瞬時に飛び起きると、慌てて辺りを見渡した。寂れた公園。錆だらけの遊具。一人分の足跡しかない、茶色の砂。公園の外からこちらを見つめる誰かの姿は――なかった。それに、伊吹はほうっと息を吐いた。
夜勤の日雇いバイト明けで、少し疲れたので公園のベンチに座っていたら、うたた寝をしてしまったらしい。懐かしい夢を見た気がする。懐かしい人と、話していた気がする。別れて、一人で日雇いバイトで働く様になったのは3年前。だから、あの夢の記憶はもう5年ほど前か。
伊吹は、ポケットから使い込んだスマホを取り出した。どうやら、眠っていたのは30分程の時間だったらしい。唯一残っている連絡先からの連絡は来ていない。父の動向に変化はない様だ。それに、安心する。
スマホをまた操作して、保存してある写真を見つめる。いつも、兄弟揃ってカメラマン側ばかりやりたがり、伊吹に全然カメラマンをさせなかったせいで、今から3年ほど前、2年半も3人で同居をしていたのに、伊吹のスマホには、二人の――千秋と刹那の兄弟の写真は多くない。いつでもデータを貰える、なんて甘えていたからこんな事になったのだ。
伊吹は、少しため息をつくとスマホをしまい、ベンチから立ち上がった。そして、肩にかかるショルダーバッグの紐を握り締めながら、公園の外に出た。
公園から少し歩いた先に、銀行がある。外では、新入行員らしき青年が、箒と塵取りで掃除をしていた。
伊吹は軽く頭を下げて、変わらず重たい瞼を擦りつつ、若者とすれ違う。
銀行から少し離れた歩道の上で立ち止まって、振り返る。
若者は、自分を見つめる伊吹に気付かず、また熱心に下を見ながら、蓋付きちりとりとほうきで掃除に勤しんでいる。彼の周りだけ近くの桜の樹から落ちた花びらが随分と少なくなっていて、歩道が少し寂しいぐらいだった。
伊吹は、そろそろ三十路が近い。
顔立ちのせいで、若く見られがちなので、自分から言わないと気付かれないが。でも、実際に、否応なく歳はとっているのだ。
最近は、流石に諦めもついた。
だから、自分よりも年下だろう若者が、ああやってなんの疑いもなく未来に進んでいく姿に、嫉妬のような黒い靄を抱く事も無くなった。いい事だと思う。ただ自分よりも年下でまともに働いているからといってこんな年上から嫉妬なんてされたら、あの若者もたまったものではないだろう。
大体、おそらくあの若者と伊吹では、前提からして違うのだ。伊吹の人生は、きっと最初から不安定だった。大学を卒業して、希望通りの会社で働き始めた時に感じていたどこか晴れやかな気持ちは全て自分の勘違いで、自分の足場なんて、誰かの思惑で簡単に崩れてしまう程度のものでしかなかったのだ。それを、あの頃は気が付いてなかっただけ。それだけの話だった。
伊吹は、益体もない思考を蹴散らすように頭を振った。
前を向くと、今月の出費予定額と日雇いバイトの入金額の計算を頭の中で足し引きを繰り返しつつ歩く。端数までしっかりと合わせて計算した結果、なんとか、今のところは大丈夫そうだ。いつ何時、逃げる事ができるように、と貯めている資金に手をつける必要もない。
しかし、来月はどうなるか分からない。
たかだか一月後の事なのに、自分の未来はこんなにも見通せない。月末が近くなれば、明日すら見通せなくなる。また、駅の構内で過ごさねばならなくなるのだろうか。コンビニで店員に睨まれながら夜を過ごす羽目になるのだろうか。
仕方がない。
伊吹は、その真っ黒な瞳で、前をじっと見据えた。
自分で選んだ結果だ。あなたは真っ当に生きて、と死の間際、伊吹に言葉を残した祖母の為にも伊吹は、逃げなければいけない。
――実の父親から、逃げ続けなければ。
伊吹は、冷たい掌をぎゅう、と握り込んだ。
しばらく切っていない爪が、肉に食い込む。知らず知らずのうちに、下唇を噛み締める。
大丈夫。まだ、きっと。
伊吹は、そう思い込むように自分に言い聞かせた。そして、数日ぶりの簡易宿泊所まで、歩いて行った。
簡易宿泊所が見えると、伊吹はその目を見開いた。そして、慌てて路地裏に隠れた。
そのまま、そっと、簡易宿泊所の前に停まる車を伺う。
簡易宿泊所の利用者は、大体が自分とそう変わらない生活を送る人間が殆どである。身寄りが無かったり、日雇い仕事であったりと、経済的に豊かな生活とは真逆の生活をしている。管理者も利用者達よりもマシだが、似たような状況なのはわかっていた。
だから宿泊所の近くに停まる誰もが知る高級車は、ひどく浮いていた。
流石に、父が寄越した追っ手はそんな露骨に伊吹に警戒される事はしない。だから、伊吹とこの車は無関係かもしれない。けれども、可能性がある以上、このまま宿泊所に戻るのは決して得策ではない。
―――――一旦この場から離れよう。
伊吹は、気配を押し殺すように、そっとその場を離れようとした、その時だった。
「おい、あんたいい加減にしろ!」
あまりの大声に、つい足が止まり、声の方向に顔が向いてしまった。
見ると、簡易宿泊所の管理人が出てきて、入り口近くに停まる高級車に向かって、大声を出している所だった。
「いつまでこんな狭い道に車停めている!! 商売の邪魔だ! 早く車動かせ、警察呼ぶぞ!」
管理人は、髪のない頭まで真っ赤にして、怒鳴っている。確か、管理人は歯が何本も抜けていた筈だが、こうもはっきりと言葉が話せるのか、と伊吹は場違いに感心してしまった。
一応、泊まれる余裕がある日は、金を払うために管理人と接していたが、管理人は基本的に無口で無愛想なので、こんなに管理人が話す姿を見るのは初めてなのだ。
運転席には、誰かがいるのは分かる。けれども伊吹の位置だと、車は伊吹に背を向けているから、運転席はよく見えないのだ。
とはいえ、これは運がいいかもしれない。あの高級車がどんな意図でこんな大通りから離れた道に停まっているのか分からないが、明らかに激怒している管理人相手ならば、ヤクザでもない限り車を動かすだろう。そうして、車が動いた後に宿泊所に入ればいいのだ。
伊吹は、そう思うとじっと様子を伺った。
しかし、運転席の誰かは、全く車を動かす様子は無かった。それどころか、管理人に何か話しかけているようだった。しかし、管理人にとってはそんな事は関係なく、そしてより怒りの火に油を注いでしまったようだ。
「うっせぇ‼︎」
管理人は、先ほどよりも大きな怒鳴り声を上げた。
「知らねえよそんなやつ! 人探しならそれこそ警察に行け!」
伊吹は、管理人のその怒鳴り声を聞いて即座に逃亡を選択した。
本当にあの高級車の運転席の誰かが、父の手先かは分からない。けれども、伊吹は追われる身なのだ。場違いな高級車。人探し。この2つが揃っているなら、自分はまた、逃げた方がいい。
自分の全財産ともいえる荷物は全て、今自分の肩にかかっているショルダーバックに入っている。いつでも逃亡できる準備は出来ているのだから、また、どこか違う土地に移り、そこで過ごそう。
そう思って、踵を返そうとした時だった。
車のドアが開く音に。足が止まる。そうだ、一応万が一の為に運転手の顔を見ておいた方がいい。そうして、伊吹は振り向き、その瞳を見開いた。
「車が邪魔だったのは悪かった。動かす」
車から出てきた青年は、立派なスーツを身に纏っていた。
「けれど、俺がここにいるのは許してくれないか」
外国の血が混ざっているという、薄い色素の髪。白い肌。大きな琥珀色の瞳に、記憶の中よりも、随分と伸びた背筋。ビスクドールの様な、顔立ち。
「やっと見つけた手がかりなんだ」
車から出てきた立派な身なりの青年――犀陵刹那は、そうして管理人と真っ直ぐに向き合っていた。
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