第1話 かつての記憶 5年前。
自分の名前の由来が言えないんだ、と出会ったばかりの頃、親友の弟が言った。
――兄の名前の由来は、『永遠』だ。それだけ、後継者として、会社を長く続けられる様にって。
彼は、伊吹が座った大学の構内のベンチの隣に座って、ぶかぶかな帽子に伊吹が貸してやった大きなパーカーのフードまで頭に被って、投げ出したスニーカーの爪先を見ながらそう言った。
――俺の名前は、千秋ありきだ。千秋が『永遠』なら、俺は、『一瞬』って意味の言葉にしておけば、兄弟らしさが出るって理由。女が生まれても通じる名前にしたかった、と父さんと母さんが言っていた。
伊吹だって弟の様に思っている親友の弟は、わずかに窺えるその綺麗な琥珀色の瞳を暗い色で染めていた。
――伊吹も、名前と一緒だ。伊吹は、千秋がいるから俺の側にいるんだろう。じゃあ、千秋がもういいって言えば、伊吹は俺の側からいなくなる。
なんでか寂しい事を言ってくる男の頭にそっと手を伸ばす。厚いフードと帽子の下の頭を撫でてやる。それに、僅かに見える頬が赤に染まっている。やはり、可愛い弟分だ。頭を撫でてやっただけで、そんなに照れて顔を赤くするなんて。
――伊吹。せめて、伊吹が千秋の下にいる間、俺の側にいて。
じ、と、刹那は見つめてくる。本当に可愛いなと思った。健気で、いじらしくて、実家が金持ちで何でも持ってるくせに、伊吹なんかを欲しいって言ってくる。
だから、伊吹は手招きした。耳を貸してって、囁いた。途端に厚いフードと帽子でも隠しきれなくなるぐらい顔を真っ赤にした刹那は、素直に隣に座る伊吹の方へ腰を動かしてくる。
そして、伊吹は、そっと刹那の耳に囁いた。
――俺も、自分の名前の由来、言えないんだ。
刹那は、驚いた様にその綺麗で、色素の薄いまつげに飾られた瞳を見開いた。
――親父が名付けてくれたんだけど、俺はばあちゃんと2人で暮らしてたし、親父とは月一でしか会えなかったから、聞く機会が無くて。それに、俺、生まれが生まれだから、適当な由来だったら嫌だなって、聞く勇気が出なかった。
刹那は、真剣な様子で聞いている。
――いつも、同じ名前の山があるから、そこと縁があるからって言ってるけど、全部嘘。千秋も、その嘘を信じてるけど、聞かれて困った時、苦し紛れに吐いた嘘なんだ。
――羨ましいよ、刹那。良い名前だと思うよ。お前は、一瞬一瞬を大事にできるやつだから、ぴったりの名前だ。
自分は、刹那の耳の辺りに声を吹き込みながら、刹那の頭を撫でる。また、顔が赤い。親友の千秋は、何であんなにこの弟に厳しいのだろうか。5歳も下の弟なんて、可愛いだけだろうに。春先でまだ寒くても、伊吹が着ていたパーカーくらい簡単に貸してしまえる程、刹那は可愛い。
――千秋にも、言ってない?
刹那の白い指が、おずおずと伊吹の着ている長袖Tシャツの袖に伸びる。うん、と、伊吹は、刹那に頷いてやった。
――俺とお前の秘密。これがあれば、千秋が俺の事いらないって言っても、お前は俺の特別だから。だからさ、千秋がいらないって言えば俺はお前の側からいなくなるっていうなよ。寂しいからさ、刹那。
自分は、笑いながら縋る刹那の頭を撫でる。いぶき、と、刹那が伊吹の名前を言いかけた時だった。
強い風が吹いた。
刹那の目深に被っていたフードが取れる。ぶかぶかの帽子も、もういらないだろうとばかりに風に攫われて遠くへ飛んでいく。伊吹は、帽子を目で追うが、刹那は伊吹の手を優しく引っ張った。
――ずっと、俺の側にいて、伊吹。
初めて、刹那の顔を、こんなに近くで、邪魔をする帽子もフードも無く、見た。
精巧なビスクドールの様な顔。肌は白く、髪もまつ毛も瞳も皆、色素が薄い。でも、その瞳は深くて、伊吹を飲み込んでしまいそうで。
でも、その先で嬉しそうに笑う刹那が見えた気がして。
伊吹は、それも悪くないな、なんて思った。だから、うん、と笑ってやって、刹那の頭を、また撫でてやったのだった。
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