第6話 マンションにて。

 肉体労働の夜勤明けだったのに、結局伊吹は車の中で一睡もする事が出来なかった。高級車のシートは自分に相応しくない程の座り心地だったが、それが逆に伊吹自身の立場を自覚させ、眠気を遠ざけてくれた。


 伊吹からしたら、もう処刑場に運ばれる罪人のような気分だった。車が停止した隙に逃げようと決意し意気込んでいたら、あれからすぐに高速道路に乗ってしまった。その間、刹那は緊張のあまり眠れない伊吹にあれやこれやを嬉しそうに話しかけてきて、正直相手をするのがしんどかった。


 下道に降りたら、信号待ちを見計らって逃亡しよう、と思っていたら、いざ高速道路を降りた最初の交差点の赤信号で車が停まった隙にドアを勢いよく開けようとしたらドアが開かなかった。なんで、と、唖然としたら、驚いた様子の刹那から「シフトレバーをパーキングにしないと、ドアロックが解除されないんだ」と、教えられた。もうバッグミラーに映る自分の顔が真っ青になっていたのが自分でも分かった。そして、今まで上機嫌だった刹那は、真顔になった後、顔を歪めたまま低い声で「もう逃げられると思うな」と、脅されたのだ。


 ああ、詰みなのだ。


 伊吹はそれを自覚するとがっくりと項垂れた。


 着いたのは、東京都心のタワーマンションだった。地下にある駐車場に刹那は車を停めて、もう真っ青になったまま項垂れていた伊吹の腕を強く、アザができるんじゃないかと思うほど掴んで、助手席から引き摺り出した。伊吹は、そんな乱暴にされてももう抵抗する気力すらない。黙ったまま、半ば無抵抗で刹那に引っ張られたままだった。


「……おい」


 大股で歩く刹那の背中に、伊吹は弱々しく声をかけた。


「なんだ」


 刹那の声色が分かりやすく不機嫌だった。けれども伊吹の情けなく消え入りそうな声に、反応は返してくれた。かつての世話役だった男に、反応を返すだけの情はあるらしい。


「俺の父から、一体幾ら貰っているんだ?」


 伊吹の言葉に、刹那の足がぴたりと止まった。タワーマンションの広い廊下のど真ん中で、高級スーツ姿の刹那と見窄らしい格好の伊吹が立ち止まる。

 周囲には誰もいないが、自分の場違いさに伊吹はため息をついた。


「は?」


 訳が分からない、という顔で振り返られる。それに、半ば呆れ、苛立ちも湧かないまま、「だから」と、伊吹は力のない言葉を続けた。


「俺の父親に頼まれたんだろう。一体、幾らなんだ? 俺は、一体幾らで引き渡されるんだ?」


 せめて、それだけ知りたかった。


 できる事ならば、できるだけ高い金額がいい。この男の世話役をしていたのは、数年前のことで、そんな立場でも、刹那からは慕われていたと思っていたし、伊吹は刹那を弟の様にも思っていた。この男からしたら2年前、とうに卒業した大学時代の話なんて、今更持ち出しても仕方がないだろうが。


 もしも、端金だったらもう全て諦めて生きていこう。父の言う事に従って、諦めて、傀儡の跡取りとして生きていこう。父からしたら、伊吹の意思は関係なく、とっくに決まっていた事だろうから、もうなんの抵抗もせず、死ぬまで、そうやって生きていこう。


「……」


 刹那は、黙ったままだった。伊吹はただただ、自分に付けられた値段が告げられるのを、じっと待っていた。


「その、」


 ようやく口を開いた時、なぜだか、刹那は少しだけ、安心した様子だった。


「……伊吹は」

「ああ」

「俺から逃げようとした訳じゃ、ないのか?」

「……」


 何を言っているのか、分からなかった。


「俺が、伊吹の父親の手先だと思ったから逃げようとしたのか?」 

「それ以外に、何があるって言うんだ……」


 その言葉に伊吹は、ため息を吐いた。


「そうだな。もしもお前が、俺の父となんの関係もなかったら、俺はお前から逃げようなんて考えなかった」


 言った所で、仕方のないタラレバ話だった。


 犀陵の会社の事は、できる限り伊吹も情報を追っていた。

 

 兄である犀陵千秋が、2年前、まだ20代の若さで父の跡を継いで上場企業の代表取締役に就任し、その補佐として弟である刹那も同じ会社にいる事は知っていた。千秋が会社を継いだ時は、社長とその弟の顔面とあまりに若すぎる事がメディアで大きく取り沙汰されていたのは、今でもよく覚えている。


 株主や社員達など周囲の心配や不安とは裏腹に、社長交代後の会社の業績は順調で、大きな自社ビルもきちんと維持している。本業に近いからと、ホテルや外食産業にも進出しはじめていて、その成果も立派だ。特に伊吹の出会ったばかりの頃はあまりの情けなさに両親から勘当寸前だった刹那は、会社のホームページに千秋と並んで紹介されているぐらいだ。2人とも、立派になった。


 だから、伊吹も分かっていた。


 昔のように、たかだか中高の同級生かつ、世話役だった伊吹を今更匿う程、もう2人は甘くないのは、ちゃんとわかっていた。


 自分はこの後、父に引き渡される。それはもう、仕方がない事だった。


 父の会社は、所謂、親族経営の老舗中小企業である。

 本業は企業間取引が主なので一般にはなかなか知られていないが、色々と事業も手広くやっていて、親族中が父の会社に勤めている。色々と親族間の馴れ合いがなくもないが、親族間の結束が深く、そこからはみ出る者は、白眼視される程だ。伊吹は、本家で行われる親族の集まりには、高校に上がった頃から行かなくなっていた。生まれとその行いが、一体親族達の目からどう映っているか。


 父が住む本家に戻ったら、一体自分はどうなるのだろうか。大人しくなるまで監禁でもされるのだろうか。本家にある地下の座敷牢は、子供の頃ドラ息子のいじめの一環で閉じ込められて以来だが、あそこにしばらく閉じ込められるのだろうか。


 自分のこれからを思うと、いっそのこと笑えてくる。なんだかんだと助けになってくれた人もいるのに、こんな結末で申し訳ない。父は親族にすら心を開かない、冷たい人間だ。本家で会う時、厳しい顔で、親族中を睨む、冷たい瞳を思い出す。あの瞳が、怖くて、嫌だった。父の悪口を言う親族も沢山いた。


 親族からも悪く言われる人なのだ。きっと、祖母の真っ当に生きてくれ、という遺言を守ることもできない。それを思うと、悔しさと情けなさと、自分の人生のままならさに、伊吹の目には、知らず知らず、涙が浮かんでいた。


「変な事を聞いたな。もういいから、早く連れていってくれ」


 誤魔化すように早口で言って、乱暴に流れ落ちそうな涙を拭う。


 そろそろ30歳に近い男が泣くなんて、なんて情けないのだろう。しかも、弟の様に思っていた人間に売られるなんて、惨めでしかない。けれども、千秋と刹那が自分に優しくする理由はもうないのだ。2人と自分の立場の違いは、ちゃんと分かっている。

 だから、大丈夫。理解しているから、大丈夫。


「伊吹」


 柔らかく、名前を呼ばれた。

 そして、ずっと掴まれていた腕が外れた。驚いて顔をあげた瞬間、暖かい両腕が自分を抱きしめてきたのだ。


「は、離せ!」


 嫌だった。


 どうせ、これから酷い目に遭うのだから、もう優しくしないで欲しかった。しかも、今まさに自分を売ろうとしている人間からの温もりだ。そんなの、もっと惨めになるだけだ。


 それなのに。


 今一番思い出されるのは、「嫌だ大学に行きたくない」と駄々を捏ねるかつての刹那の姿。自分に縋り付く、あの情けなかった頃と全く変わらない、温かい体温だった。

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