第5話 刹那との出会い
犀陵刹那と出会ったのは、父からの逃亡生活が始まってから一月が過ぎた頃だった。
あの時はもう逃げるのに必死で、今まで関わっていた人達にはろくな挨拶も出来ずほとんど全ての物を捨て出奔するしかなかった。足がつく可能性の高い、以前から使っていた携帯は解約して、新しくスマホに買い替えたほどだ。
周囲の誰かに頼れば、その誰かの元に父が追っ手を差し向ける。そして、周囲に迷惑をかける。そんな事が分かりきっていたから、ほとんどの連絡先は引き継がなかった。その消してしまった連絡先の一つに、中高一貫校で出会った、
千秋は、伊吹の事情にも引かず、他の同級生達とは違い、伊吹を遠巻きにしなかった唯一の人間で、そして親友だった。
少し素直ではないが堂々とした男で、周りから一目置かれていた。自慢の親友で、連絡先を消すのは寂しかったが、仕方がないと伊吹は自分の手で連絡先を消した。
けれども、逃亡資金を稼ぐ為に、日雇いバイトでホテルで開催されたパーティーの配膳係をしていた時、そこの招待客の1人に、千秋がいた。千秋は伊吹の姿を見るなり目をカッと見開きカツカツと近寄ってきて、固まる自分を無視していきなり胸ぐらを掴んできた。
比較的プライベートな催しであり、伊吹もいきなり胸ぐらを掴んできた千秋を庇った為、その場は収まった。けれども千秋は伊吹を逃す気はなく、パーティー中、ずっと伊吹を睨み、そしてパーティーが終わっても帰らないで、従業員出入り口で伊吹を待ち構えていた。
「乗れ」
ぶっきら棒にそう言って、千秋は伊吹を車に押し込んだ。
あの時は流石に怖かった。千秋は普段は話好きなのに、あの時車内はもう恐ろしくなるほどの沈黙で全く落ち着けなかった。
そして、たどり着いた千秋の暮らすマンションで、そこに居候していた刹那と出会ったのだ。
「つまり、俺の助けは俺にメリットがないから、伊吹はそれを受け入れられない訳だ」
千秋は、話し合いの最中、ずっとイライライライラしていた。向かい合って座ったテーブルの上に片腕で頬杖をつきながらもう片方の手の指はやけにリズミカルにテーブルを叩いていた。部屋の隅で、室内だというのに目深に帽子を被ったままの刹那は逃げ出すことすらもできず顔を真っ青にして話の行く末を見守っていた。
「……メリットがないどころじゃない。デメリットだらけだ。親父が、きっと探し回っているから、もしお前が俺を匿っている事が知られたら、お前の家の会社にまで迷惑がかかる」
「別に俺は気にしないけどね」
「俺が気にする! それに、あんたはべつに親父の会社と敵対したい訳じゃないんだろう! 俺の事は気にしないでくれ。放っておいてくれればそれで、」
ぐわし、とまた胸ぐらを掴まれた。向き合っていたテーブルの向こうで立ち上がった千秋のこめかみには血管が浮かび、まるで般若の如き形相となって伊吹を睨んでいた。
「よし、なら君に見返りとして仕事をあげよう」
声は優しげなのに、顔は修羅に歪んだまま、そう言われた。
「おい刹那」
いきなり名前を呼ばれた刹那は、ぴゃっ、と飛び上がった。その拍子に脛にそばに置いてある観葉植物の鉢があたり痛みにもがいていたが、千秋には弟のそんなコントみたいな動きにはお構いなしだった。
「喜べ。お前に初めての友人ができたぞ」
「へ……」
「え?」
「伊吹。こいつはな、とにかくメンタルが弱く人間不信で視線恐怖症なんだ。折角受かった大学も入学直前の今になって行きたくないと言い出し、周囲を困らせ、両親相手も怖がるようになり、俺の部屋に転がり込んできたんだよ」
その言葉に、刹那は、う、と俯いた。
「だ、だって、父さんも母さんも俺の話なんて全然聞いてやくれない。大学も俺は通信制にする、と言ったのに全然俺の希望聞いてくれなくて……」
刹那は、帽子のつばを持って、ぐいとそこを下に引っ張って、目元を隠した。
「それなのに、毎日毎日なぜ俺は千秋と違うんだと俺を詰って! 限界だったんだ!」
「そうは言っても、大学に通わなきゃお前は勘当だ。今のお前が世間に放逐されてまともに生きられるとでも? 大学に行け」
「無理だ! どうせ、今までと何も変わらない! 俺に寄ってくる奴らは犀陵のおこぼれを貰おうとしているだけ! 俺の事なんて誰も見ない! そんな場所、行きたくない!」
「伊吹を付ける」
「え」
胸ぐらを掴まれたまま、兄弟のやり取りをなす術なく見守っていた伊吹は、声を漏らした。
「伊吹。君の身は俺が預かる。その代わりに、この愚弟の友達役――ようはボディーガードをしてほしい」
「と、友達……?」
「刹那。こいつの人格は中高共に過ごした俺が保証しよう。こいつはおこぼれを貰おうなんて考えもしない奴だ。そしてこの俺と、中高6年間友人として付き合ってきた」
「初めて千秋の口から友人なんて言葉聞いた……!」
「いつかは俺の右腕にとまで見込んだ人間だ」
「そんなに千秋が認めているなんて!?を」
なぜ興奮しているんだ刹那? 随分と大袈裟な表現だぞ千秋? と、伊吹は心の中で疑問を浮かべるが、初対面の友人の弟ともう決定事項を話しているつもりであろう千秋に、一切の口を挟めなかった。
「そう。だから、お前ごとき伊吹にかかれば赤子みたいなものだ」
赤子の世話はかなり大変なのだから、そんな軽く言わないでほしい。
「伊吹。これで、君が俺の提案を断る理由は、無くなったね?」
ごうごうと燃える、千秋の瞳。
それに否と言える訳なく、はい、と言うしかなかった。
騒がしい2年半だった。
千秋の部屋に住みながら、毎日毎日学生ではないのに刹那のボディーガードとして伊吹は大学に着いていった。講義も他の学生と混じる事のできる講義なら共に受けた。服装に気を遣えば、周囲の年下の大学生達に紛れる事ができ、周囲からは、伊吹は一年浪人して大学に入った、刹那の幼馴染だと思われていた。実際は一年どころではない年上としては少し複雑な気分だったが、仕事と割り切った。
一番の問題と懸念していた、刹那との仲はなんでか良好だった。別に伊吹は普通に過ごしていただけなのだが、刹那はどんどん伊吹に懐き、自分もこの情けない男をどこか可愛く、弟の様に思っていたのだ。
その間、千秋はどんどん力をつけていった。刹那が大学を卒業する頃には、堂々と伊吹を千秋の下に置けるようになる、なんて、真剣な目で自分に話してくれた事もあった。あの時、確かに自分は、そんな未来を信じていた。
けれども、その未来は訪れることはなかった。刹那が大学3年の半ばも過ぎた頃、伊吹の身の上を知る人間が現れたからである。それだけならともかく、父に連絡して金を受け取ろうとした。だから、逃げた。
2人にそれぞれ感謝と謝罪のメッセージだけ残して、迷惑がかからない内に逃げたのだ。流石に自分も逃げたくなんてなかったが、仕方のない事と、自分を納得させた。
だから、刹那はずっと怒っていたのかもしれない。だから、今、伊吹を捕まえにきたのかもしれない。
それしか、考えられなかった。
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