第30話 つ か ま え た
気がつくと、飛行機の中が随分と騒がしかった。
窓に寄りかかっていた伊吹は、薄く目を開ける。少し周りを見渡すと、随分と飛行機の中には人が増えていて、ガヤガヤと騒いでいた。様々な人種が様々な表情で色んな事を話していた。伊吹に聞き取れる言語もあれば、聞き取れない言語もある。腕時計を見ると、そろそろ離陸をする時間だった。
昨日の夜は、やはりよく眠れなかった。叔父の家で貸してもらった寝具のせいでは断じてなく、考え事や思い出す事も多くて眠れなかったのだ。しかし、やはりどこかで限界が来て眠ってしまったらしい。
とはいえ、伊吹もこのまま起きる気は無かった。離陸後、機内モニターで何か観る気分になれないし、こんなにモヤモヤとした気分では英語の勉強もままならない。でも、考えたって仕方がないのだから、出来る限り眠っているつもりだったのだ。
シートベルトは既にしている。だから、伊吹は腕を組んで、また窓に寄りかかった。
伊吹が座る列には、真ん中の席には誰も座って居なかったが、通路側の席には伊吹とそう年頃の変わっていなさそうな、到着する国の出身らしき青年が座っていた。日本語ではない文字で書かれた雑誌を何が面白いのか、笑いながら読んでいる。
その青年がページを捲る音を聞きながら、眠っているつもりだった。
飛行機に乗ると眠くなる、という人がいるらしい。伊吹は飛行機は高校の修学旅行のヨーロッパ以来だ。その時に隣に座っていた千秋にそんな豆知識を教えてもらった。千秋はやはり家族での海外旅行で飛行機の経験があり、逆に伊吹が祖母と行くバスに乗っての観光の方が珍しいらしく、色々お互いの体験談を伝え合ったものだった。
そんな事を思い出して、目を瞑りながら苦笑する。全く、今こんな事思い出して、何になるというのか。
足音がする。CAだろうか。
「エクスキューズミー」
なんて綺麗なジャパニーズイングリッシュだろう、と半ば眠っている頭で思った。皮肉である。ようは、発音がダメダメなのだ。
「プリーズチェンジマイシート」
アクセントがなってない。単語を区切って発音している。発音の流れがなってない。発音練習頑張れ。
おそらく日本人である青年の英語にそうエールを送る。
通路側の席にいた青年は、その国訛りだが明らかにそちらの方が英語ネイティブには聞き取りやすいだろうな、という発音でジャパニーズイングリッシュに言い返している。断っている様だ。確かに、席の交換は断られる事も多い、と千秋は話していた。残念だが、青年がそういう以上、ジャパニーズイングリッシュには、諦めてもらわないと。
しかし、程なくゴソゴソと何かが動く音がする。青年の嬉しそうな「Thank you」の声がした。それに、伊吹は分からない。なぜ、青年が「ありがとう」と、いうのか。金でも渡した、とかだろうか。
そして、また物音がする。気配が、近づいてくる。
伊吹が不可解さにその目を開けるとの、強い力が伊吹の左手を掴んだのは、ほぼ同時だった。
「伊吹」
その声に、伊吹の眠気が吹っ飛んだ。
目を見開いた。
見下ろしている左手には、白い男の手が伊吹の左手を強く、強く掴んでいる。手が、痛い。
「驚いたよ、伊吹」
ゆっくりと、伊吹は首を動かした。
「せいぜい日本国内かなって思ったら、空港にいるから。千秋もびっくりしてた」
熱のある色素の薄い、けれども深淵の如き深い瞳。欲を孕んだ声。
「なんとか間に合ってよかった。流石に、海外にまで逃げられちゃ溜まったもんじゃない。はは、あれだけ焦った千秋を見たの、初めてだ」
見せてやりたかった、なんて嘯く口。
美しいともいえるその笑み。けれども、瞳は深く、深く伊吹を呑み込もうとしている。手を握る力は、強くなる一方だった。
機内アナウンスが聞こえる。電子機器の電源を切る様に警告される。ああ、と、忘れていた、と言った調子で、もう片方の手を伸ばされた。行き先は、伊吹の胸元で揺れる、ペンダントだった。
「ちゃんと切っておかないとな、GPS」
どう操作したのか、ペンダントから不似合いな電子音がする。GPS、という単語が、まるで頭が馬鹿になった様に、理解、できなかった。
「伊吹」
柔らかく、名前を呼ばれた。
「もう、絶対に逃さないと、言っただろう?」
そうして、伊吹の隣に座った刹那は、伊吹の左手を強く掴んだまま、笑っていた。
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