第29話 飛行機の中。
様々な手続きが終わり、伊吹は無事に飛行機に乗り込んだ。
スーツケースは既に預けてあり、簡単な手荷物だけ持っている。バッグは、昨日店から逃げ出した時辛うじて掴んだ、長年使い込んだショルダーバッグだ。どうしようか、と悩んだが、座席上の荷物収納棚には入れず、座席の下に入れておくことにした。別に綺麗なバッグではないし、近くに置いてないと忘れてしまいそうだ。
伊吹の席は奥の窓際だった。
トイレに行きにくい、という事もあるがかなり久々の飛行機なので、空の景色を楽しみたい、とも思っていたから嬉しい。現地に着くまで5時間ほどなので、先に済ませたし、飛行機の中で飲み物を我慢していればトイレも我慢できるだろう。
飛行機の中、どう過ごそうかと考えて、伊吹は足元のバッグに手を伸ばした時、痛みに顔を引き攣らせた。
取り出そうと伸ばした手を引っ込めて、じっとその左手を見つめる。
刹那に強く握られた手には、変わらず痛みがあった。痕もまだ、残っている。叔父の娘を抱いた時はさりげなく庇っていたが、それでもずっとずっと痛みはあったのだ。
――いいのだろうか。
また、そんな事を思う。
刹那からの夥しい程の連絡は、一晩経っても止まなかった。あまりのしつこさに叔父と昨夜合流した後はスマホの電源を落としていた。朝になってまた電源を入れ直したとき、もしかして眠っていないのか、と思うほどの着信が入っていた。
そのあまりの着信の数に、それを見た叔父も顔色を悪くしていた。充電も勿体無いし、とまた伊吹はスマホの電源を落としてバッグの奥底へとしまい、今もそのままだ。
あちらの空港で、現地で使えるSIMカードを購入してスマホを利用する予定だ。SIMカードを変えれば電話番号も変わるし、SNSのメッセンジャーアプリも消してしまうから刹那から連絡が来ることもなくなるだろう。
伊吹は、座席に深く座って苦笑した。
まるで、最初に父から逃げた時と一緒だ。
本家と店との違いはあるが、立派な建物の場所に連れて行かれて、思ってもみない事を告げられて、走って逃げ出して、叔父を頼って、今こうして遠い場所に逃げようとしている。
生々流転という言葉があるが、伊吹の人生は何も変わらない。今まで日本中を逃げていたのが、海外になっただけだ。まあ、流石にあの2人も海外にまで追って来れないだろうから、叔父の言う通り、まだ落ち着いた生活が待っているだろう。
ふと、前の席に付いている電源の入っていないモニターをみると、浮かない顔の自分が映っていた。これから海外に行き、新しい生活が待っているというのに、我ながら、どこか陰鬱な雰囲気が出ている。せっかくの自由だというのに、その顔は全く晴れやかではなかった。はは、と、1人、乾いた声が出る。
――あなたは、真っ当に生きなさい。
祖母は、伊吹に向かってそう言った。
けれども、伊吹を見て放った言葉は、伊吹を見てなかった。まるで睨む様に、伊吹ではなく、祖母の記憶の中の誰かに向かって言っていた。
祖母は優しい人だった。愚痴を吐いているのを見た事もなく伊吹を見るとニコニコとしていて、周りの人に好かれていた。けれども、そんな祖母にだって、死の間際に思い出して、自分の手を握る孫に「ああはなるな」と伝える程の人間がいたのだ。それが個人か、複数かは分からない。でも、確実に祖母が憎む様な人間がいたのだ。
自分は、そんな人間に、なっていないだろうか。
刹那と千秋を捨てて逃げる自分は、本当に祖母の望みなのだろうか。
あの2人の伊吹への執着の理由は分からないし受け入れられない。けれども、だからと言って、また自分の為に逃げてもいいのだろうか。もっと、自分にできる事があるのではないか。
伊吹は、窓から外を見る。
眩しい太陽が空港を照らしている。天気の悪さは事故にも繋がるし、晴天を厭うほど捻くれているわけではない。旅立ちにはもってこいの、ぴったりな陽気だろう。
けれども、伊吹の心は晴れなかった。
晴れない心の中、青空だけが残酷なほど青く、広がっていた。
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