第13話 ファーストキスは不意打ちか
叔父はああはいったが、伊吹には完全に日本から離れる決断は持てなかった。というより、祖母の墓をそのままにして海外移住は、考えられなかったのだ。
逃亡していた時も、隙を見ての定期的な墓参りは欠かさなかった。叔父に頼めば墓の管理はしてくれるのかもしれないが、でも、ずっと世話を頼むのは叔父も大変だろうし、なにより祖母を1人にするみたいで、海外移住は無理だ。
だから伊吹の考えとしては、数年、海外で過ごすつもりだった。その間、伊吹を探していた面々も状況が変わっているだろう。海外にいる間、千秋と刹那はそれぞれ結婚するかもしれない。そうなれば、伊吹の事を気にかける事も減る。その後に日本に帰って過ごせばいいのだ。
まあ、海外暮らしなら外国語は達者になるだろうが、海外から戻ってきた時、年齢もあるし外国語以外の日本で働く為のスキルを身に付ける事ができるかはかなり微妙な所だ。けれども、逃亡生活のおかげで安い給料の中でも過ごす術は心得ている。また、日雇いの仕事に勤しんで暮らせばいい。そんな生活には、慣れている。
いくら家事をしているからといって、刹那に頼りきりではいけない。刹那との立場の違いとか自分の置かれた状況を考えなければ。自分の事をちゃんと見て、自覚して、動かなければ。
伊吹にあてがわれた部屋の中。まるで男子中高生がいかがわしい雑誌を隠すみたいに、ベッドの下に隠しておいた海外移住や留学に関する雑誌を取り出す。今はちょうど、日付が変わった時間だ。明日も仕事の刹那はもう寝ているだろう。部屋の電気が消えた事は確認済みだった。
「俺、リビングに英語の本なんて持って行ったか……?」
ベッドの上に座り、ため息混じりに、伊吹は呟いた。
確かに、英語は必須だろうと英語学習の本も雑誌と一緒に買った。雑誌ほど露骨ではないし、言い訳もしやすいので積極的に隠す真似もしていなかった。でも、リビングまで持って行った記憶がない。
まさか、部屋に入れられたのか?
そう思うと、伊吹の目が遠くを見る様に据わった。同居しているから色々難しいが、でも、悟られない様に警戒をしなくてはならない。
大丈夫だ。常に警戒しながら過ごす事もまた、慣れている。
逃亡生活で培ったノウハウがここまで役に立つとは思わなかった。本当に、世の中何が役立つか分からないものだ。
ペラペラと雑誌のページを捲る。一見、キラキラしているように見える海外生活だが、勿論そんなに甘くないのは分かっている。治安だって日本とは異なる。伊吹も逃亡生活でアンダーグラウンドは散々歩いたが、日本のそれと海外のそれは、色々違うのだろう。気を引き締めた方がいい。
伊吹の海外行きの主な資金源は、彰がくれた約300万円だ。追加で伊吹自身でも金を貯めるつもりとはいえ、信頼し尊敬する叔父がくれた金だから、なるべく有意義な事に使いたい。しかし、自分には具体的にやりたい事もなかった。こんな状態では、ただただ漫然と金と時間を消費するだけなのは分かりきっている。
「学校に通うか……」
物価が安い国のページを開く。そこに掲載されているいくつかの語学学校に目を通した。学校に通えば、必然的に学びと共に有意義な時間も過ごせるだろうし、その最中自分のやりたい事も見つかるかもしれない。
語学学校の紹介が終わると、次は大学の紹介のページだった。日本よりも格安で大学に通える、と書いてある。様々な学部学科。そこに、太字で強調されていた学部があった。
『英語と共に経営学を学んでみませんか?』
「…………」
『いつか、お前達の支えになりたい』
『お前達の為に頑張りたい』
なんでか、夕食の時の出まかせが、頭の中で響く。そっと、目立つ色で印刷されたその言葉を撫ぜた。
例えば、が、頭の中で巡る。最近までホームレス同然だった自分には、不相応な理想と映像が頭に流れる。
「伊吹、起きているのか?」
突如聞こえた刹那の声に、伊吹は心臓が跳ね上がるかと思った。
「お、起きている!」
言いながら、ベッドの下に雑誌を押し込んだ。これ見られたらどうなるか分からないが、絶対まずい事になる。理由は分からないが、千秋も出てくるほどまずい事になる気がする。
「開けるぞ」
扉が開き、顔を覗かせたのはやはり刹那だった。伊吹の部屋の明かりに、眩しそうに目を細めている。
「居候の身で夜更かしは失礼だったな。すぐ寝る」
「……気にしないでくれ、それくらい。俺が顔を見たくなっただけだ。後、伊吹は居候じゃない」
刹那は後ろ手で扉を閉めて、ベッドの上に座っていた伊吹の元まで近寄ってきて、黙って隣に座った。明らかに眠そうで、なんだか雰囲気がぼんやりしていた。
「どうかしたか」
「……伊吹」
刹那は、ゆっくりと顔を上げた。
「夕食の時に言ってた事、本当だよな?」
今日何度心臓に緊張を与えるつもりなのだろうか刹那は。
「どうしたんだ、いきなり」
「夢を見ただけだ。それが、なんか、正夢になりそうな気がして、釘を刺しにきた」
つまり、嫌な夢を見た、という事だ。だから、怖くなったのではなく、釘を刺しにきた、ときた。なにか不安な事があると、直ぐ他人に圧を掛けて不安を解消しようとする所、本当に千秋の弟だと思う。昔からこうだったろうか。昔は「嫌な夢を見たから頭を撫でて甘やかして」みたいな事を伊吹に言っていた気がするが。
「俺の側から、離れないな?」
腕を強く、掴まれる。
刹那の色の薄い瞳が、今はとても深く感じる。
「……俺にべったりか。そんなんで結婚できるのか? 俺は女じゃないんだぞ」
「俺は別に結婚して子供なんて作る必要ないんだ。そういうのは千秋の役割。俺は結婚してもしなくてもどちらでもいい」
「だからって……」
「俺は、伊吹が側にいてくれたらそれでいい。本当に、それでいいんだ……」
刹那は、ぎゅう、と伊吹の肩を包み込む様に抱き締める。香水の匂いはシャワーで落ちた。今は、刹那自身の匂いと体温だった。
「伊吹、答えて。誓って。俺から離れないと言って」
伊吹、と、名前を何度も呼ばれる。
伊吹は、抱きしめられたまま、目を泳がせた。
「なんでそんなに、俺ばっかり……」
「だって、伊吹は俺自身を初めて見てくれた。犀陵目当てじゃなかった。媚びなかった。堂々としていた。情けない俺も全部全部受け入れてくれた。俺をたくさん、助けてくれた。俺の事を、初めて沢山、甘やかしてくれた」
格好良かった、と耳元で刹那の声がした。
褒められて、嬉しいとは思う。伊吹は、見た目が若く見られがちで、格好いい、と言われたことはあまりなかったから。正直、若く見えがちな顔立ちを気にしているのだ。
父は冷たい印象さえ感じられる、切れ長の瞳のクールな顔立ちで、顔はそちらに似たかったな、と思っているほどだ。伊吹は叔父とは違い、言われなければ分からないほどしか父と似ていない。
「俺じゃなくても、そんな人間、他にいると思うぞ」
伊吹は、刹那の背中を軽く叩きながら言った。
「でも、伊吹がいい。伊吹が好き。好きなんだ……」
こいつ、酒入っていないよな? と、伊吹は自分に縋り付く刹那の色素の薄い頭をガン見しながら思った。アルコールの匂いはしないが、素面だとは信じられなかった。
「伊吹、次にまた逃げたら、もう絶対に許さない」
声の温度が、低い。
「閉じ込めて、どこにも行かないようにしてやる。ずっとずっと、閉じ込めてやる。どこにも行かせない。永遠に、たとえ死んでも、閉じ込めてやる」
刹那は強く強く、伊吹の身体を抱きしめている。それに、迂闊な事は何一つ言えなかった。
「伊吹、俺の言う事が分かったのなら、一緒に寝よう」
えぇ……、と伊吹はまさかの提案に心が置いてけぼりになって、つい声が溢れてしまった。
「一緒に寝て」
「いやその、」
「寝て」
「流石に狭、」
「伊吹」
「俺6時起、」
「閉じ込めるぞ」
拒否権が無い。
「分かった、分かったから……」
伊吹は、刹那の背中を優しく両手で叩いた。
「お前は壁側で寝ろ。俺は6時起きだから、ベッドから出やすい方で寝る」
「うん」
刹那は、へにゃりと笑った。
布団をめくったシーツの中に刹那は転がる。やはり、半ば寝ぼけていたらしい。もう目が直ぐにでも閉じそうになっている。その中でも、ん、と腕を広げて、伊吹もベッドに入るのを待っていた。
「電気消すぞ」
電気の紐を引っ張ると、部屋は暗くなる。刹那はベッドに入った伊吹の身体を抱きしめた。物凄く久々だ、誰かと一緒に眠るなんて。まだ伊吹が子供の頃、隣で眠る祖母の布団に入り込んだ時以来か。
なんだか目が冴えてきた。眠った方がいいが眠れそうにない。けれども、刹那の腕の中に閉じ込められている以上考え事以外何もできそうに無い。
仕方がなく、伊吹は雑誌の内容を思い出した。どこの学校にするか眠りながら考える事にした。
「伊吹」
刹那の声が頭の上からする。頭を動かして上を向くと、少しだけ暗闇に慣れた目が、真っ黒な塊が迫ってくるのを映していた。
その塊は、真っ直ぐに伊吹の唇を奪った。
「お休み。大好きだよ、伊吹」
そして、塊はベッドに沈み込んだ。
一睡もしていない身体をなんとか動かして、伊吹は弁当と朝食の準備をしていた。眠い。すごく眠い。けれども何とか手を動かす。
千秋の分の弁当箱にラップで包んだおにぎりを詰めて、卵焼きや作り置きの煮物などの簡単なおかずも詰める。今日は刹那も同じ内容だ。ちょっと複雑な事を考えられない精神状態なので。
「おはよう、伊吹」
その声に、伊吹の背が跳ねた。ゆっくりと、振り向く。そこには、ワイシャツとスラックス姿の刹那が上着と荷物をもってリビングにやってきた所だった。
「何か眠そうだな」
眠れなかったのか、という伊吹にとって白々しい言葉に、口の端がひくりと上がった。
「そう、だな。うん……」
今日はバイトは午前は入れていないから、刹那を見送った後一眠りするつもりだ。でも、自分の部屋のベッドでは寝る気はなかった。寝れない気しかしない。
「そうか」
刹那は、ダイニングテーブルに座ると、伊吹がテーブルに置いておいた新聞を手に取って読み始めた。コーヒーも持って行って渡すと、「ありがとう」という言葉と共に飲み始める。普通だった。普通すぎるほど、普通だった。
「今日の帰りは9時頃になりそうだ。夕食はいるが、俺の事は待たずに先に食べててもいいぞ」
「……いや、待っている」
「そうか? 頑張って早く帰るな」
刹那は、嬉しそうに微笑んだ。
ダイニングテーブルに朝食を用意して共に食べる。食べている時も、普通だった。
食べ終えて刹那は洗面所に向かう。自分は朝食の皿を片付けていると、程なく刹那がリビングに戻ってきた。
普段なら、このまま刹那は会社に向かう。けれども、今日はリビングの中央でぴたりと止まり、伊吹をじっと見つめていた。
嫌な予感が、した。
「どう、した」
「伊吹、ちょっとこっちに来てくれ」
「……………………」
怖々とした心地で、そっと刹那に近寄る。そして、刹那から、少し離れた位置で止まった
「もっと」
にこり、と、柔く微笑みながら、刹那は伊吹を呼んだ。
「なん、で」
「今日、会社行きたくない」
唐突だった。
「い、いや、何を言っているんだ。今日予定があるんだろう」
「うん。でも行きたくない」
「い、行け」
「伊吹が、もう少しこっちに来てくれたら行く」
刹那は、ニコニコとしながら立っている。ちらりと時計を確認すると、そろそろ刹那が家を出る時間が迫っている。でも、刹那は動こうとしない。仕方がなく、伊吹は、少しずつ、少しずつ刹那に近寄った。
「伊吹」
真正面まで近寄ると、いきなり刹那が腕を伸ばして、伊吹の身体を抱きしめた。
それに、伊吹は目を見開き、そして身体が強張った。くすり、という笑い声が耳元に落とされた。
「昨日の夜、一緒に寝てくれて、キスさせてくれて嬉しかった」
――全部全部覚えてやがる、昨日の事!!
伊吹はもう真っ赤になって刹那の腕の中で暴れた。しかし、完全に調子に乗っている刹那の腕は全く取れなかった。
そして、暴れに暴れ疲れて動きが鈍くなった隙に、伊吹は、昨日の夜と同じ様に、唇を奪われた。
「行ってきます、伊吹」
刹那は、いたずらが成功した子供の様な顔をして、上着と鞄を持ってリビングから出て行った。
後は、真っ赤な顔でリビングの中央で佇む伊吹だけ。
—―――今日の夜、あいつの嫌いなピーマン料理にしてやる。
頭の片隅で、そんな決意に拳を握りしめた。
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