第14話 5月某日。都内某所にて
その親子は、何度も何度も伊吹に礼を言った。
「Thank you so much! As I heard,Japanese are very kind!」
母親は安堵の涙を浮かべながら、伊吹の両手を握る。娘を抱き上げた父親も安心した様な笑みを浮かべていた。
「Hey, say you "Thank you" to him」
父親は、娘にそう促すと、父親の首に両手を回していたまだ小さな少女はゆっくりと振り向き、はにかみながら手を振った。
「Thank you, Ibuki」
「That's alright. I'm glad your parents came to pick you up」
伊吹は、その愛らしい様子に自然と笑みが浮かぶ。そうして、日本に観光に来た、という親子は交番から去って行った。ずっと泣いていた迷子だった少女は、今度は笑顔で、見えなくなるまで伊吹に手を振っていた。
「いやあ、ありがとうございました」
頭を下げたのは、警察官だった。
「我々も、翻訳用タブレットはあるんですけど、あれだけ泣いている小さい子相手はどうしようもなくて。本当に助かりましたよ」
「いえ。お節介でないなら良かったです」
「お兄さん、通訳か何かですか? すごい英語上手いですね、発音も外国人みたいでしたよ」
「あー、ええと」
伊吹は、目を泳がせた。すると、泳がせた先に、憮然とした顔で立ったままの刹那がいた。
「会社勤めは、してないですね……」
「フリーランスって奴ですか? 本当にすごいなぁ」
警察官の褒め言葉に曖昧に笑うと、ずっと後ろにいた刹那に腕を掴まれた。
「もう行っていいか」
「あ、はい! ご協力、ありがとうございました!」
警察官は、深々と頭を下げた。彼が頭を上げる前に刹那は伊吹の腕を引っ張って、交番から出ていく。それに自分は大人しく着いていくだけだった。
見上げると、青空の中で鯉のぼりがひらひらと泳いでいる。あの迷子だった少女は、両親と共に空を泳ぐ魚を見に来た、と言っていた。そして上を見て歩くうちに迷子になってしまったのだという。嫌な思い出にならなければいいが。
「伊吹」
名前を呼ばれてそちらを向くと、未だ機嫌が直っていない顔の刹那がいた。
「確か伊吹って、理系だったよな?」
大学もそっちだと千秋が言っていた、と付け足される。それにどう答えようか悩む事も無かった。もし追及されたらどう答えようか、既に答えはまとめてあった。
「理系でも英語は使うだろう。昔取った杵柄だ。最近も勉強しているし、子供相手だからそんなに難しい事言ってないぞ」
「……そう、か」
刹那は、ゆっくりと手を離した。
「英語は覚えればいいから。国語の現代文よりも楽だ」
「……覚える方が大変だと思うが」
今いるのは橋の上。橋の欄干に近寄り、その上に両手を置く。また空を見上げると、川の上にもひらひらと鯉のぼりが泳いでいた。天を劈くかのように高いタワーの間、布でできた鯉が遊んでいるかの様だった。
大都会のビルの中、ここだけ、子供の遊び場になったかの様に様々な色の鯉がいる。実際に子供たちも親に連れられて、多く行き交っていた。
「なんというか、国語は答えを文章の中から見つける試験だろう。他の科目は、覚えさえすれば頭の中に答えがあるのに、国語だけ問題の中から見つけなくてはいけない。それが慣れなくてな」
「そう言われればそうか。漢字とかは暗記だが、現代文は暗記でどうにかならないしな」
「分かりやすく書いてあるならいいんだ。でも、なんかこう、難しい言葉でわざわざ書いてるだろう。大嫌いだったよ、国語」
刹那は伊吹の隣まで来ると、同じ様に欄干に手を置く。けれども空は見上げずに伊吹を見つめている。花見に行けなかった代わりに、と今日誘ってきたのは刹那なのに。自分を見て何がいいのか。
「俺は、数学が嫌いだった」
「え? 楽しいだろう数学」
「あー……そういうタイプだったな、伊吹」
刹那は、ジト目で伊吹を見つめた。
「勝手に動く点Pとか、何故か一緒に家を出ない兄弟とか。物凄く腹立った」
「どっちも例え話みたいなものだから、深く気にする必要ないだろう」
「でも腹立つ。あ、後、人数分用意されないアメも不思議だった。というか酷くないか? なぜ数人だけ割りを食わないとならない?」
「それは、確かに俺も可哀想だと思っていた」
2人でたわいの無い話をする。こうしていると、まだ刹那が大学生だった頃を思い出す。あの時は、2人でよくこんなたわいもない話をしたものだ。家に帰ると、千秋も一緒になって下らない話をした。――楽しかったと、正直思う。
「伊吹は、東京は久々だったか」
話が途切れた後、刹那は静かな声で話題を切り替えた。
「ずっと、東京を離れていたんだよな」
「まあな、色んな場所に行った。どこもあまり治安の良くない場所だったが」
日本は広いぞ、と伊吹は続けた。
「小学校すら行っていない、という爺さんもいたし、読み書きが出来ない人もいた。日本で生まれ育ったのに、親が外国人だから在留資格を持てないんだ、という人も。うっかり荷物をそのままにしていると確実に何か抜かれるから気を抜けなかった」
一度、着替えが入っていた荷物を丸ごと盗まれた事がある。あの時の絶望感は筆舌に尽くし難い。
「迎えに行った所の爺さん、怖かった」
刹那は、ぽつりとつぶやいた。
「あんなのばっかだったのか」
「普通に利用している分には無口な人だったよ。でも、お前、あんな車で来たから」
目に付くところにずっと停まっている高級車に乗る若者なんて、あの簡易宿泊所の管理人からしたら面白くないに決まっている。そんな事も分からないのだろうか、と軽く呆れそうになる。
しかし、刹那はどうにもその事に自覚は無さそうだった。それに、伊吹の胸に自分勝手な黒い靄がかかる。
ふと気がついてまた刹那に声をかけた。
「どうして俺があそこに居るって分かったんだ? どこからだその情報」
もう自分を探す追っ手を気にする必要はないが、気になるものは気になる。というか、こいつらの情報網は確認しておかないと。
「運が良かったんだ」
刹那は、静かな声で言った後、伊吹に顔を向けた。その表情は、どこか悲しげで、伊吹は聞かなきゃ良かったか? と心配になった。
「……伊吹。あんな、結構心配されてたんだぞ、色んな人から」
「……どういう事だ? いやというか話したくないならいい。深くは聞かない」
「いや、聞いておくべきだ」
刹那は、俯いて欄干の上の両手を握りしめた。
「伊吹は、工事現場で働いていたんだろう、あの時」
伊吹の眉間の皺が寄る。なぜ、知っている? そこまで話していない。
「伊吹がよく通ってた工事現場、ある会社の工場の建設予定地なんだがそこに見学に来てた社員の1人が、大学の同期で。覚えているか」
告げられた名前に聞き覚えがあった。周りとは距離をとっていた刹那と伊吹にもよく話しかけてくれた、気のいい奴だ。
「ああ、覚えている。……見られていたか」
「うん」
俯いている刹那は、鼻を啜った。
「写真もこっそり撮って、俺に送ってくれた」
それを聞いて、単純に恥ずかしくなった。真面目に働いていたとはいえ、汗塗れで、汚れていて、こき使われていて、見られたもんじゃなかっただろう。
「その写真を見た時の俺の気持ちが、分かるか」
「見苦しかっただろう。嫌なものを見せた」
「……違う」
刹那は、頭を振った。
「やっと手がかりが見つかって嬉しかったよ。嬉しかったけど、伊吹は昔よりもずっと痩せていて、しんどそうで。でも、昔と変わらず真面目に働いているのが分かって。……変わってないと、思って」
刹那の体が、小刻みに震えている。
それに、伊吹は慌てた。
来い、と刹那の手を引っ張る。橋の袂の階段を下りた川沿いには遊歩道がありベンチも設置されていた。まだ少し冷える今日の気温では、日陰になる奥のベンチは不人気だ。だからそこに行き、刹那を座らせる。奥に座らせた方がいいのだろうが、奥は完全に日陰になっている。だから伊吹は刹那の壁になる様な位置に立って、目隠しになる事にした。
「……もっと、あの時の俺たちに力があれば良かったな」
刹那は、そっと呟いた。
「そうしたら、伊吹は苦労なんてしなかった。俺から逃げなかった」
刹那は、伊吹の手首を掴んだ。変わらず、伊吹のその手首は細い。
「だから、頑張ったんだよ。たくさん、たくさん俺は頑張った。他人を怖くならない様に、俺の後ろにある犀陵を、丸ごと伊吹の為の力として扱える様に、頑張ったんだ」
見上げた刹那の目には、涙が浮かんでいる。その中でも真っ直ぐに刹那は伊吹を見つめていた。
「伊吹」
名前を呼ばれる。
「もう、どこにも行かないでくれ」
「……」
海外に行く準備は、進み始めた。
海外の大学に行きたいと思う、と告げた伊吹を、叔父は応援してくれた。追加で金を送ろうとしたので流石に断ったが、代わりに、と紹介したのは、昼間、刹那がいない隙にできる高給のアルバイトだった。
叔父が勤める会社で、データ入力のバイトをして、こんな単純作業にこの時給でいいのか、と思う程の給料を貰っている。
叔父と同じオフィスでの仕事だから安心するし、伊吹に優しい社員ばかりで、単純に、ありがたいと思う。
「……頑張りすぎだ、バカ」
伊吹は、小さく呟いた。それなのに、刹那はその呟きを拾い上げて、涙目で伊吹を見上げる。初めて会った時の事を思い出すが、でも、伊吹も刹那も、あの時と大きく変わった。
――いや、伊吹は変わっていない。変わったのは刹那だ。
自分は変われなかった。自分の為に逃げていただけだ。そんなのに学びも成長もどこにあるのだろうか。
対する刹那は、とても立派になった。今は涙目で伊吹の手にしがみついているが、こんなでも会社に行けば社長の補佐という仕事を立派に果たしている。まだ大学を卒業して数年しか経っていないのに、本当に立派に成長した。
――本当に、羨ましいくらい。
「刹那、お前は本当に凄いよ」
伊吹は、眩しくなって、目を細めて刹那を見下ろした。笑みを作って、刹那を諭す。
「でも、その凄さを、俺の為にだけに使わないでいいんだ。他を見ろ。今のお前に見合う奴が、きっと沢山いる」
教えてやらなければ。まだ若い刹那に、伊吹ばかり見るな、とちゃんと教えてやらなければ。違う道に進める様に、ちゃんと背中を押してやらなければ。それが、僅かばかり残った、年上の矜持、という奴だから。
「……いらない」
しかし刹那は、頑固に首を振った。
「伊吹しかいらない」
「刹那、お前な、」
「俺は、伊吹の為に頑張ったんだぞ」
刹那は、涙目で見上げながら、伊吹を睨んだ。
「伊吹が欲しくて頑張ったのに、他の奴なんて勝手な事を言うな」
ここでキスをしてもいいんだぞ、という脅しに、伊吹は何も言えずたじろいだ。なんであれだけ人の視線を嫌がっていた奴がこんな事言えるのだ!
「伊吹だって凄い。……でも、伊吹は自分で自分の事を凄くないと思っている」
どくんと心臓が跳ねた。
「俺は伊吹に追いつく為に頑張ったのに、当の伊吹は自分を凄くないと言って、俺達の――俺の手を取らないところ、伊吹の唯一嫌いなところだ」
未だに掴んだままの伊吹の手首に、刹那は力を込める。
「伊吹、頑張るな、とは言わない。でも、頑張るなら、俺達の手を取ってくれ」
刹那は、縋る様に言った。
「前、伊吹が俺達の為に頑張りたい、と言った事、俺は覚えている。嬉しかった」
伊吹は、無意識に唇を噛み締めた。
「それが本当なら、勝手に頑張らないでくれ。伊吹が勝手に頑張ると、俺からまた離れていきそうで、すごく――ものすごく、怖い」
手首が痛いくらいに握られている。
「英語、あんなに話せるなんて初めて知った。普段、俺のいる所では勉強している姿、見た事ないから驚いた」
「……仕事帰りでリラックスしたいだろうに、俺が勉強してたら落ち着かないだろう。テレビだって見たくないのか?」
「いや勝手に頑張られる方が落ち着かない。テレビも無くてもいい。邪魔だと言うなら捨てる」
刹那は、はっきりと言った。それに、伊吹の笑みが強張る。祖母と暮らした実家にあったテレビよりも大きな、立派なテレビを捨てる、なんてあっさり言えるのか、刹那は。
「伊吹の頑張りを否定したい訳じゃない。何か挑戦したい事があれば応援する。でも、黙って頑張るのだけは、よしてくれ。俺に言いづらければ、千秋に打ち明けてもいいから、伊吹の頑張りを教えて」
ごくり、と喉がなる。真っ直ぐに、刹那は伊吹を見上げていた。
「伊吹、俺たちに、隠していることは、ないな?」
見上げた刹那の瞳は、深い。
「…………」
伊吹は、何も言えずに口を閉ざす。
隠している事なんて、山ほどある。2人に救われたのに、伊吹はまた、刹那と千秋から逃げようとしている。恩に不義理で返そうとしている。また、自分の為に。
――これでいいのか?
祖母は、自分は真っ当に生きろ、と言っていただろう。恩人に、不義理をする事が真っ当か? あの時の自分の言葉を、こんなにも強く縋る奴を騙すのが真っ当か? 裏切る事が、真っ当か?
なあ、どうなんだ、籤浜伊吹?
「……………せつ、な」
伊吹は、カラカラの口の中で、何とか声を出した。
「俺、俺……」
「うん」
刹那は、伊吹の手首を強く掴んだまま、穏やかな、嬉しそうな顔で頷いた。
どこから話せばいい。
叔父の事からか? でも、伝え方に気をつけないときっと大変な事になる気がする。伊吹は、必死に頭を回す。
嘘から出た真という言葉がある。2人の為に頑張りたいと言ったの出まかせだ。けれども、真にしなければ。あれだけ人の視線を怖がっていた奴が、ここまで真っ直ぐに見つめてくる。それに、応えてやらなければ。本当に、しなければ。
伊吹は、勇気を振り絞る。そして、口を開く。その時だった。
「もしかして、犀陵の弟くんかい?」
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