第12話 遠くを見据えるように
小皿にとった味噌汁の味見をすると、伊吹はうん、と頷いた。これくらいの味噌の濃度なら、ちょうどいい。出汁もきちんときいている。
身を屈めて、コンロについている魚焼きグリルを覗く。並んだ2枚の𩸽の干物から脂がジリジリと出てきていた。これも美味しそうだ。もう少しで焼ける。
副菜にと用意していたひじきの煮物の鍋を温め直す為、コンロにかける。魚が焼ける頃には温まるだろう。
扉が開き、そこから風呂上がりの刹那がタオルで髪を拭きながらダイニングキッチン付きのリビングに入ってきた所だった。髪は完全に拭けていなく、床にぽつりぽつりと雫が垂れている。それに、伊吹はため息をついた。
「貸せ」
刹那からタオルを受け取ると、拭くのが下手な刹那の代わりに、髪を拭いてやる。細く繊細な髪を痛めない様にと気を遣いながら、真剣に伊吹は髪を拭いていた。
「伊吹」
拭き終えると、刹那は伊吹の胴体に腕を回して、伊吹を抱きしめて甘えてきた。まだ完全に乾いていない髪から、シャンプーの匂いがする。
「座れ。ドライヤーで乾かすから」
伊吹は、ソファーに刹那を座らせると、持ってきたドライヤーで刹那の髪を乾かし始める。美容師の様に、とはいかないはずなのに、刹那は気持ちよさそうに目を細めていた。
髪を乾かし終わり、向き合ってダイニングテーブルで夕飯を食べる。白米に、味噌汁に、𩸽の干物に、ひじきの煮物、キャベツの浅漬けという和食だ。伊吹よりも若い刹那には、もう少しガッツリしたメニューの方が、とも思ったが、刹那は美味しそうに伊吹の料理を食べていた。
「そういえば、今日の午後、家にいなかったな。何していたんだ?」
刹那のその言葉に、一瞬箸が止まった。けれど、動揺を悟られてはいけないので直ぐに動かした。
「お前こそ、なんでいなかった事知っているんだ? 会社は?」
伊吹は、刹那の分よりも少し小さい干物に箸を伸ばす。普通に、普通に。それを意識しろ、自分、と伊吹は自分自身に囁く。
「ちょうど、打ち合わせでこの辺にいたんだ。打ち合わせ終わった後、顔を見たくて帰ったんだが、伊吹いなかった」
刹那は、少しだけ拗ねた様な言い方で、じとりと伊吹を睨んだ。
「何をしていたんだ?」
さて、なんと答えようか。
伊吹は、少し考えてから口を開いた。
「……実は、また日雇いバイトを始めた。それで、いなかったんだ」
ひとまず、正直に告白することにした。
刹那は、その瞳を少しだけ見開いた後、憮然とした様子で目を据わる。予想していたが、そんな目と顔で見つめられると、居心地が悪い。
「金、足りていないのか? いくら必要だ? 増やす」
「その、金の問題じゃなくて……」
伊吹は、うーん、と考える様に刹那から視線を横にそらしてから、口を開いた。
「昼間、1人でこの部屋にいると、色々考えても仕方がない事を考えてしまうから。身体を動かして働いている内は、余計な事を考えずにすむ」
伊吹は、言いながら小皿の浅漬けに箸を伸ばす。
「金は大丈夫だ。十分足りているから、これ以上は贅沢が過ぎる」
箸で持ち上げたキャベツは、塩で揉んでも水々しく灯りを反射している。刹那の方を見れば、他のおかずよりも先に浅漬けの皿が空になっていた。
浅漬けのお代わりはいるか、と聞けば頷かれたので冷蔵庫から作り置きしておいた浅漬けを持ってきて刹那の皿に盛る。刹那は礼をしてから、箸を伸ばしていた。
「……そういえば」
刹那は、憮然とした様子のまま、口を開いた。
「英語学習の本が、リビングに置いてあった。あれ、伊吹のだろう」
勉強か? と刹那は伊吹を見つめている。それに、先程の比ではなく、心臓がドクンと鳴る。落ち着け、まだ、完全に尻尾を掴ませた訳じゃない。
「片付けたつもりだったんだが、出しっぱなしになっていたか? すまない」
伊吹は、平静を装って食事を進めている。対する刹那は、伊吹が何かを話すまで手を止めるつもりなのか、じっと箸を止めて伊吹を見つめていた。
若いな、と素直に思う。
確かに時として有効な事はあるが、さも相手を疑っています、なんて態度は余計な警戒心が働く事もあるから、避けた方がいいのに。
「……俺はまともな職歴が殆どないだろう。焼け石に水かもしれないが、磨けるスキルは、磨いた方がいい」
「……伊吹」
刹那はため息まじりに伊吹の名前を呼んだ。
「焦る必要はない。まだ同居して一月も経っていないし、別に伊吹が無理して外で働く必要ない」
刹那は、やっと箸を動かして、𩸽の干物にそれを刺し入れた。持ち上げた魚の身が明かりに照らされている。
「無理はしていない。働きたいと思ったから働いただけだ」
「……英語は、目を瞑る。でも、バイトは必要ない」
「どうして? 世の中、何が役立つか分からないぞ」
「どうしてって……」
刹那は、考え込む様に目を細めた。
考えを纏まらせる前に、伊吹は口を開いた。
「いつまでも、お前の世話になる訳にはいかないだろう。よりにもよって、こんな、お前よりも5歳も年上の男が」
年齢差を考えろ、とダメ押しの様に言う。
「もしかして、お前も結婚するかもしれない。その時俺がいちゃ駄目だろう。だから、」
「俺から離れるのか?」
覚悟はしていたが、想像以上の圧に口を噤んでしまった。
「俺から、また逃げるのか? 伊吹」
顔を上げると、完全に目が据わり瞳が深くなった刹那が、こちらを睨む様に見つめていた。どくんどくんと心臓がうるさい。落ち着け。動揺を悟られるな。余裕そうな表情は崩すな。隙を見せるな。
頭の中からの、自分への指令に応じるように、伊吹は笑みを作った。そして、箸を置くと刹那へと手を伸ばした。
「いたっ!」
伊吹は、指で刹那の白い額を弾いた。
まさかの行動に、刹那の方が動揺した様に目を白黒とさせている。そんなおかしな様子に、ふ、と、心からの笑みが溢れた。
「考えが飛躍しすぎだ馬鹿」
伊吹は、腕を引っ込めると、また箸を握り直した。そろそろ伊吹の分の夕食は終わりかけで、味噌汁が半分くらい残っただけになっている。それに、手を伸ばした。
「でも、言っておくが俺も男だ。いつまでも、お前の世話になってばかりでは年上の面子が保てない」
それは、本心だった。
「それに、お前の重荷にもなりたくない」
これも、本心。
「お前達には本当に感謝しているよ。だから、世話になってばかりでは俺が満足できない」
本心。
「いつか、お前達の支えになりたい。だから、今更なのは分かっているが、俺はお前達の為に頑張りたいんだよ」
これは―――――。
伊吹の言葉に、刹那は額を抑えて、まるで肺が潰されたかの様に、うー、と声をあげた。
「そばに、いてくれるのか?」
「ああ」
我ながら、よくもこう嘘が付ける。
「……俺の為?」
「さっきも言っただろう」
上手く笑みは作れているだろうか。悟られていないだろうか。じっと、刹那を観察する。先ほどよりも、瞳に熱が籠っている。うまく、騙せれてくれている。
「…………」
刹那は、頬を赤らめて、目を伏せた。
「英語は、いいと思う。きっと仕事の幅が広がるから」
「だろうな」
「千秋に聞いてみる。伊吹も俺たちと一緒に働けばいい。そうしたら、余計な事も考えないだろう?」
「全くお前は……」
伊吹は、はあとため息を吐いてみせた。
「こんなスキルも何もない若くもない奴がコネ入社、なんて周囲が一番困るだろう。パソコンだって碌に使えないんだぞ」
「俺は気にしない……。後から覚えればいい」
「立場を考えろ。俺だって居心地の悪い職場は勘弁だ」
伊吹の言葉に、刹那は何も言えないのか唇を尖らせた。
見れば、刹那の夕食はまだ大分残っている。話しすぎた。もう夕食に専念させた方がいいだろう。そう思うと、伊吹は立ち上がり、自分の分の盆を持ち上げた。
「俺は風呂に入るから、ゆっくり食べろ。食器はキッチンに置いておいてくれれば、俺が洗うから」
「……分かった」
刹那の素直な言葉に安心して、伊吹は刹那に背を向けた。
どうにか、誤魔化されてくれた。
背を向けたから、伊吹の顔は刹那には見えない。だから伊吹は、刹那から背を向けて、睨む様に前を見据えていた。
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