第36話 これも、本心

 気がつけば、カーテンが開いたままの窓から、夕日が差し込んできた。


 真っ赤な夕焼け。それが、ゆっくりと沈んでいく。眩しいな、と思った。沈んでいく太陽は、ベッドに拘束されたままの伊吹を熱くて痛いくらいに照らしている。それに、目を細める。


 長い間、ベッドの上に同じ体勢でいたから、そろそろ腰が痛い。いい加減、拘束を解いてくれないかな、と伊吹は泣き疲れてぼんやりとした頭でそう思った。


「……」


 刹那は、ようやく、その手を上げた。


 そして、震える手でベッドに繋がる伊吹の左手の拘束に手を伸ばす。そして、あれだけ伊吹が引っ張っても取れなかった左手の拘束は、あっさりと刹那の手で解けた。


 伊吹も、ゆっくりと左手を下ろす。見れば、伊吹の左手はすっかり腫れていて、感覚がない。まさか、骨が折れてしまったのだろうか。


 病院か。金がかかるのは嫌だな、とそれだけ思う。


 そのまま、刹那が右手の拘束を解いてくれるのを、じっと待つ。


 ベッドが軋む。刹那が伊吹の上からどく。長い間触れていた刹那の温かい体温が自分から離れて、腰の辺りが寒いくらいだった。


 刹那は、そのまま窓に近寄った。しゃあ、と音を立ててカーテンが閉められる。夕日が僅かな隙間しか見えなくなり、部屋が暗くなる。ベッドに戻ってきた刹那は、伊吹の右手の拘束に手を伸ばす。そして、ぱちり、と音がした。


 ベッドに備え付いている電気が付けられたのだ。伊吹の変わらず露わになっている上半身を照らす。刹那は、2つのソファーの間にあるテーブルから、筒らしきものが入ったビニール袋を持ってくる。


「――――よし」


 そして、また伊吹の上に跨った。


「待て」


 伊吹は、なぜか右手の拘束ではなく、伊吹の頬に両手を当てた刹那を制止した。


「なんだ」


 刹那の顔が近い。何でか目がしっかりとしている。真っ直ぐに伊吹を見ている。なんか決意に満ちている。なぜだ。分からない。


「右手。拘束を解け」


 伊吹は、視線を変わらず拘束されたままの右手にやった。


「……は? 逃げるだろう、伊吹」

「いや逃げる逃げないの話じゃない」

「もしかして、右手も痛みが? ちょっと左手が酷い状態だったから、そっちは拘束を解いたが、右手は今の所変わったところは無いぞ」


 腫れもない、と、なぜか平静な様子の刹那。伊吹は、より色んなものが分からない。


「いや、あの」


 伊吹は、目を泳がせた。


「俺と、もう、縁を切るのでは……」

「は?」


 刹那の声が、低くなった。


「は? なに。何を言っているんだ、伊吹?」


 俺の思いを舐めているのか、と、刹那の目が据わっている。怖い、と伊吹は、素直に思った。


「いやあの、普通、あれだけ言われたら、その、俺を解放しないか? もうホテルから出てけ、と言われて、その、そのまま、縁を切るのかと……」


 何でか、刹那の目がどんどん怖くなる。目が据わっている、なんか深淵が深くなる、目の深みが、暗く、深くなる。


「わ、分かっただろう。俺は、もう昔と違うんだって。お前に見合う存在じゃない。立場とかが、違うんだって……」


 刹那の体が持ち上がる。なんか、こう、伊吹を呆れた、という感じで見下ろしてくる。そして、そのまま、また上半身が倒れこんでくる。


「ひっ!」


 そして、伊吹の胸に倒れ込むと、熱い舌で、胸を舐められた。


「せ、せせせせせつな! この期に及んで何を!」

「セックス」

「堂々と口に出すな馬鹿!」


 伊吹は、真っ赤になって叫んだ。


「さっき、抱きたいなら抱けと言ったのは伊吹だ」

「言ったが! まさか本気にするとは思わないだろうが!」

「すまないが、俺には伊吹の言葉が嘘か本当か区別がつかない。だからもう、都合のいい言葉だけ信じる事にした」

「都合が良すぎる!」


 伊吹は、思いっきり叫んだ。


「お前、俺の叫び聞いていたか⁉︎ なあ⁉︎ あの流れでなんで抱く気になるんだ、おかしいだろう!」

「……まあ、確かに少し、ショックだったが」

「そうだろう⁉︎」

「でも、俺の下で哀れに身も世もなく泣き喚く伊吹には、正直興奮した」

「言わないでいいそんな余計な事!!」


 伊吹は、まだ拘束されたままの右手を思いっきり引っ張る。けれども、全然解けない。先ほどの刹那の手つきを思い出して解こうと左手を伸ばす。けれども、刹那に腕を押さえ込まれてしまった。


「無理をするな。左手、酷い状態だぞ」

「い、言っておくけどな、これ、お前が店で強く握ってから、ずっと痛いんだからな……!」

「それは済まない」


 刹那は、白々しいとも言える声で、伊吹の左手首を押さえ込み続けている。


「刹那、頼むから止めてくれ。俺以外に、いるだろう、誰か……!」

「誰かって誰だ。具体的に言ってみろ」

「い、いや、その」


 それを言われると弱い。なにせ、今の刹那の交友関係は全く知らないのだ。というかいるのか、友人とか。同居していた時、ずっと真っ直ぐ家まで帰ってきていたし、大学だって伊吹がいないと誰かと関わろうとしなかった。


「うん。じゃあ伊吹しかいないな」


 言い淀んだ伊吹を無視して、刹那は伊吹の顎を掴み上に上げて、口付けてきた。舌も入れてくる。んー! と声を上げるが、その声も全部全部貪られる様に口付けされる。抵抗ができない。苦しい。目に涙が浮かぶし、頭が真っ白になる。


 ようやく解放された時、伊吹はもう息絶え絶えだった。


「ふん」


 刹那は、親指で口の端を拭いながら、伊吹を見下ろして鼻で笑った。笑いやがった、と伊吹は、ずっと可愛がっていた刹那に逆転された様にショックだった。


「俺の事、童貞とか言ってた癖に。伊吹だってディープキスの時の呼吸が下手じゃないか。よく人の性経験についてああだこうだ言えたものだ」

 

 まあ、あまり経験豊富でも複雑だが、と付け加えられるが、伊吹はもうそれに突っ込んでいられなかった。


「せ、刹那」


 うん? と、刹那から反応が返ってくる。刹那は、自分のシャツに手をかけて、それを脱ぎ、インナーも脱ぎ去り、床に落とした。


「す、するのか」

「ああ、する」


 上半身裸になった刹那は、しっかりと頷いた。初めてまじまじと見つめたその体は、筋肉もしっかりと付いていて、刹那の上半身は男らしく逞しい。なぜか、胸がぐ、と締め付けられた。


「伊吹も自分が言った事なんだから、腹を括れ。この期に及んで嘘でした、は通用しないぞ」

「お、終わった後」

「うん」

「俺を、解放してくれるのか」

「すると思うか?」


 思いっきり冷めた目で見下されてしまった。


「折角、ずっと欲しくて追いかけていた奴とセックスしたのに、はいこれで満足、と終われると思うか?」


 なあ、と、詰め寄られる。パワハラでも受けているのか、自分は。


「で、でも! さっき、俺は、お前に相応しくないって!」

「ああ、それなんだが」


 刹那は、伊吹の左手首を掴みながら、改めてのしかかる。


「ずっと、伊吹との同居生活を振り返ってみたんだが」

「あ、ああ」

「そういえば、ずっと自信なさそうにしていたな、とか、俺にやたらと健気に尽くしてたな、とか、俺が仕事の話をする度なんか落ち込んでいたな、と思い出して」

「……うん」

「でもそんな伊吹をずっと可愛いなって思ってた自分に気が付いて」

「……うん?」

「だから、ずっとフォローしてなかった自分にも同時に気がついたから、気にしなくていいぞ」

「気にするわアホ!!」


 伊吹は、思いっきり暴れた。


「なんだそれ! 質が悪すぎるぞお前!」

「仕方がない。千秋の弟だから」

「クソッ、言い返せない……!!」

「ああ。千秋の弟だから、仕方がない」


 刹那は体重をかけつつ、伊吹を抑え込んでいる。

 なぜか得意げな顔で同じ言葉を繰り返す刹那だが、伊吹も言い返せなかった。なんて、なんて便利な言葉だろうか、『千秋の弟』!


「だから、まあ、伊吹の事をちゃんとフォローできなかった俺にも結構な責任がある。だから気にしないでくれ」

「気にする......! すごく気にする……!」

「でも、伊吹だって、俺達に追いつこうと頑張っていたんだろう?」


 微笑みながら言われた言葉に、伊吹の身体ががちんと固まってしまった。


「伊吹、経営学部に行こうとしていたんだ」


 にんまりと、笑われた。

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