第8話 犀陵のビル

 せめて、スーツと言わずとも、もう少しフォーマルな、カッチリとした格好をするべきだったかもしれない。


 高い、立派なビルだった。春の暖かな陽気がビル全体を照らして窓が光を反射している。立派だ。千秋が社長を務め、その補佐として刹那も働く会社の前で警備員に止められた時、伊吹はそう思った。


「何か用事?」

 

 中年の警備員は、ジーンズにラフなTシャツにパーカーを羽織っただけの伊吹を、ジロジロと上から下まで睨むように観察している。彼の職務を思えば仕方がない事だ。だから、その視線も敬語もなにもない口調も、不愉快に思う事もなかった。というか、初対面でタメ口をきかれるのは慣れている。顔立ちのせいだ。複雑である。


「その、弁当を、届けに」

「弁当?」


 警備員は、ぐいとその眉間に皺を寄せた。そして、伊吹が抱える2人分の弁当の包みに目を落とす。伊吹の目的が分かったからか、少しだけ警備員の警戒が和らいだ。


「悪いけど、部外者を入れる訳にはいかないよ。届け先の名前を教えてくれれば、こちらで預かるから」

「ああ、じゃあ、お願いします」


 そうして、伊吹が、千秋と刹那の名前を出した時、警備員は思い切り顔を顰めた。あ、やってしまった。せめて、秘書の名前を出すべきだった。事前に、秘書の名前を刹那に聞いておけばよかった。


「……本当に? それ、うちの社長とその弟なの、分かって言ってる?」

「ええと……はい。頼まれて……」


 伊吹は正直に答えるが、警備員は全く信じた顔をしてくれなかった。もう、これは完全に自分が悪い。いつまでも服を買い替えず、逃亡時に持っていたのと同じ服を未だに着ていたから。刹那の言うことを聞いて、なぜかたくさん部屋に揃えられていた伊吹用だ、という服を今回は着るべきだった。昔とは大違いの金の使い方にドン引きしている場合じゃなかった。祖母だって、「受けられる好意はなるべく受けておいた方がいいのよ。でもお礼はしっかりとね」と伊吹に教えてくれてたのに。


「身分証明書ある? 確認させて」

「ええと……」


 こんなしっかりとした会社で求められる身分証明書、と言うことは、顔写真付きの身分証明書だろう。けれども、伊吹はそんなもの持っていなかった。健康保険証なら伊吹の使い込んだ古い財布に入ってる。しかし、社長兄弟への届け物を持ってきた自分にそれで事足りるだろうか。


 以前なら、運転免許証は持っていたが、逃亡期間に期限が過ぎて失効してしまったのだ。再取得もしていない。だから、持ってない。


「すみません、いいです……」


 伊吹は、早々に諦めて踵を返した。


 とりあえず、刹那に連絡しよう。その後色々考えればいい。そうして、スマホを取り出しつつ、変わらず伊吹へと疑いの眼差しを向ける警備員に、背を向けたその時だった。


「やあ伊吹」


 一見朗らかだが、明らかに作ってるな、という声色で声をかけられた。


 振り向くと、驚愕にその瞳を見開く警備員がいて、その視線の先には、この会社の代表取締役である、犀陵千秋さいりょうちあきが和やかにこちらに歩み寄ってきた所だった。

 色素の薄い、セットされた髪に、刹那よりも薄い琥珀色の瞳に白い肌。刹那よりも異国の血が濃そうな繊細な顔立ちの、美しいといえる男だった。

 

「千秋、さん」

「ちょっと」


 和やかな笑みを浮かべていたのに、瞬時に千秋は顔を顰めた。


「何その呼び方。やめてくれないか」

「いや、一応そう言っておいた方がいいかと……。ここ、会社だし……」

「別に君は俺の部下じゃないんだし、同い年だし、千秋さんなんて言われる筋合いはないよ。やめてくれ」


 思い切り素の対応をされてしまった。突如現れた社長に、警備員もどうすればいいか、明らかに戸惑っている。その様子に、千秋は、咳払いをしてから会社のホームページに載っているままの笑顔を警備員に浮かべた。


「心配をかけた。彼は私の友人なんだ。身分は私が保証しよう。さあ行こう伊吹」

「……え? その、俺は弁当を届けに来ただけで、」

「行こう伊吹」

「もう、」

「行くよ伊吹」

「帰、」

「来い伊吹」

「…………………………」


 千秋がざっくばらんな口調で命令形になったらもう引かない。それは、中高6年間と同居時代の2年半で十分に分かっていた。


 だから、変わらず戸惑ったままの警備員に会釈をしてから、千秋の後ろを黙って着いて行った。すごく場違いで嫌だったが、自分は居候の身なので仕方がない。


 社長の後ろを所在なさげに歩く、弁当箱を抱えた雑な格好の男はそりゃ目立つ。人通りも激しいエントランスならともかく、エレベーターに乗ってスーツなどを着た人々が行き交う最上階の廊下まで辿り着けば、伊吹の場違い感は半端ではなかった。社長の手前、皆ジロジロと見ないが、それでもすれ違い様に「何この男?」と皆、目で語っている。


「刹那は、どうしたんだ?」


 普通、出てくるなら兄で社長である千秋でなくて、弟で補佐役の刹那ではなかろうか。


「仕事が途中だったし、あいつに行かせると、ほら、エントランスで君を止めた警備員がいるだろう。彼を減給とか解雇とか言い出しかねないから俺が行った」


 え、と伊吹は顔色を変えた。


「あ、あの人はただ仕事をしていただけだろう! そんな処分なんて……!」

「分かっているよ。でもあいつはそんな事気にしないから、面倒な事になる前に俺が先に行った。君が面倒事になる前に、俺たちから逃げたようにね」


 皮肉げな言い方に、う、と伊吹はたじろいだ。その様子に、少しだけ溜飲が下がったかのように、千秋はこちらを少し向いて、くすり、と笑っていた。


 その笑みを目撃した通りがかりの若い女性は、目を見開き顔を真っ赤にして固まっている。気持ちは分かるけど、結構食えない男だぞこいつは、と若い女性に心の中で語り掛けていると、千秋は大きな両開きの扉の前で立ち止まった。


「着いたよ。覚悟しておけ。あの愚弟、今か今かと君を待っていたから」


 そうして千秋は社長室だ、という扉を開けた。


「伊吹!」


 がたりと音を立てて、機能的な調度が揃えられた社長室で難しい顔をしてパソコンに向き合っていた刹那は、入り口の千秋と伊吹に気づいて立ち上がった。

 そして、ガタガタと色んな物に当たりながら、入り口に立ったままの伊吹の元まで駆け寄ってくる。


「落ち着け愚弟。今は昼休憩中で誰もいないとはいえ、立場を考えろ立場を」

「でも! 本当に伊吹が来てくれるなんて!!」

「弁当を届けにきただけだろう!」


 伊吹は、抱きしめようとする刹那を押さえるように弁当の包みを押し付ける。それを受け取った刹那は、嬉しそうに微笑んだ。


「その、上手くできたか分からないが」

「久々だな、伊吹の料理は」


 そう言いながら、千秋も弁当を受け取った。千秋は、今でもかつて同居していたマンションに暮らしているが、伊吹も刹那も出ていって一人暮らしなので、誰かの手料理も久々なのかもしれない。……恋人はいないのだろうか。


 千秋は、そのまま帰ろうとする伊吹の腕を掴み奥まで連れて行く。社長室は、入り口に近いスペースに机、パソコンが複数台置いてある。ここは、刹那を始めとする社長である千秋を補佐する社員達の仕事スペースなのだろう。奥に衝立があり、その先には社長である千秋の机と応接ソファーがあった。そこで昼食を取るつもりらしい。


 早速、応接ソファーに座ると、2人は弁当の包みを広げる。それをテーブルクロス代わりにした後、いただます、と丁寧に両手を合わせた後、食べ始めた。


 作った身としては、味見はしたが食べている所を見るとドキドキする。なんとなく刹那の隣に座り、伊吹はじっと2人の食事を見守っていた。


「すまないな、弁当、朝持たせられなくて……」

「別にいい。伊吹に会えたから」

「聞けば、ずっと住所不定のまま、安宿を渡り歩いてきたんだろう。久々の家事に慣れていないのは仕方がないさ」

「色は茶色いが……」

「和食の家庭料理の色は大体茶色だ、伊吹」


 そんな発言をした刹那に「流石にそれは暴論だぞ」と思いながら、今日の夕食の献立の茶色を減らそうと考えていくうちに、2人はもぐもぐと弁当を食べすすめていく。その様子を見ると、舌に合わない、という事はなさそうだ。そっと安心して息をついた。

 自分に料理を教えてくれた祖母にありがとう、と礼を言う。最初は男の子が料理なんて、と言っていたのを押し切った甲斐があった。


「普段は昼はどうしているんだ」

「会社で契約してる弁当宅配業者のやつ。でも抜く事も多くて、結局食べずに返す事も多くてね」


 卵焼きに箸を伸ばしながらの千秋の発言に、伊吹は少し驚く。


「忙しいのか」

「まあねえ」


 千秋は、せめてこれは、と刹那に持たせた水筒のお茶を飲んでいる。見た目は少々日本人離れしている千秋と刹那だが、お茶はやはり落ち着くらしい。お茶を飲んだ千秋は、はー、とリラックスしたように息を吐いていた。


「今日はまとまった時間が取れたからいいけど、おにぎりとかサンドイッチの方がありがたいかもしれない。隙間時間に食べられるし」

「分かった。参考にする」


 若き社長として活躍する千秋はそりゃ多忙だろうとは思っていたが、昼休憩もろくに取れないとは想像以上だ。千秋でそれなら、刹那もそうした方がいいだろうか。


 そう思って刹那の方を向くと、刹那は熱心にもりもりと弁当を食べていた。


「刹那。お前もそうするか?」

「うん?」


 刹那はひとまず反応を返した後、モグモグと咀嚼し口の中の物を飲み込んでから、うー、と声を上げた。


「俺は、伊吹が作った物なら、なんでも嬉しい」

「……」


 微笑みながら言うな。恥ずかしい。


「刹那、なんでもいい、は主婦が一番困る言葉らしいぞ」

「えっ」


 千秋のニヤニヤとした顔に、刹那は本気で慌てたように目を見開いた。


「え、あ、その! 帰るまでには考えておく!」

「……無理しなくていい。日によって違う事もあるだろう。事前に教えてくれれば、それに合わせる」


 なるべく落ち着かせる為、微笑みながら言うと刹那の顔が真っ赤になった。


 くすくす、と言う笑い声の方を向けば、千秋がまるで同居時代に戻ったような顔で笑っていた。常に堂々しているこの男だが、こんなにも気の抜けた顔は、本当に、久々だった。


 刹那が伊吹を迎えに来て、刹那が一人暮らしをしている部屋に初めて連れてこられた日の夜、千秋もやってきて、色々と伊吹の今までとこれからを話した。その時は、久方ぶりの挨拶もそこそこに、籤浜の会社の話もしなければならなかったから、千秋は仕事の顔が殆どで、こんな顔を見る事もなかったのだ。今見る事ができて、懐かしく、純粋に、嬉しいと思う。そういえば、その時も手錠が掛けられたままだった。なぜ、千秋の前でも刹那は手錠を外してくれなかったのだろうか。恥ずかしかったな、今思えば。千秋は何も言わずにスルーしていたが。なんでだろうか。


 つい、とパーカーの袖を引っ張られる。そちらに顔を向けると、少し刹那が唇を尖らせていた。


「今、伊吹と同居しているのは俺なんだぞ」

 

 今更何を言っているのか。

 呆れていると、また千秋の笑い声が聞こえる。場が、とても和やかだ。久しく感じていなかった安寧に、自然とまた笑みが浮かんだ。


 









 



 2人が食べ終わった弁当を片付け終わったのとほぼ同時に、社長室の扉が叩かれる音がした。


 3人で色々と下らない話をしていたのに、その音に千秋と刹那は瞬時に顔を引き締めた。仕事の顔だ。自分は途端に居場所がない気分になる。壁にかけられた時計を見ると、そろそろ昼休憩が終わる所だった。


「加賀美です。刹那さん、いらっしゃいますか?」


 女性の声だ。張りがあって、しっかりとした声音だった。


「ああ。千秋もいる。入っていい」


 驚いた伊吹を他所に、刹那の許可に、扉が開く音がする。そしてヒールの足音が聞こえて、衝立までやってくる。そこから顔を覗かせた女性は、社長兄弟と共に座る伊吹を見て、驚いたように目を丸くした。


「どうしたんだい」

「ええ、その」


 女性は、伊吹の方をちらりと見てから、声を潜めた。それに、より居た堪れなくなる。気を遣わせている。


「例の件で一時報告をしたいのですが、午後に1時間ほど、まとまった時間は取れますか」


 女性は、40代ほどでしっかりとした雰囲気を持っていた。女性は若いほどいい、なんて嘯く奴もいるが、この女性はしっかりと自分の人生を歩んできたような深みと色気を感じられる。自分の道行に確かな自信を持っているように堂々としていた。左手薬指の、シンプルなデザインの指輪が光っている。


「……長居してしまったな。俺はもう帰る。2人とも、仕事頑張って、」


 言いかけた伊吹は、最後まで話す事は出来なかった。

 隣の刹那が、立ち上がりかけた伊吹の腕を引っ張ったからだ。体勢を崩して、またソファーに戻ってしまう。


「ちょ、せ、俺はもう帰るから」


 普段は躊躇わず呼べる刹那の名前が、言えなかった。こんなにしっかりとした、役職もあるだろう社員の前で、刹那を馴れ馴れしく呼ぶなんて、伊吹には到底できない。年上とか年下とか、そんなの意味はないのだ。


「ここにいていい」


 慌てて刹那の手を外そうとする伊吹に向かって、なぜか千秋も硬い声音で声をかけた。女性も伊吹も驚いて千秋の方を見てしまう。流石に駄目だろう、と声をかけたいが、名前が、呼べない。


「社長、いいんですか」


 代わりに女性が伊吹をチラチラと見ながら困惑したように千秋に声をかけた。


「加賀美さん、君が良ければこれから報告をしてくれても構わないよ」

「ふ、2人とも!」


 伊吹は、思わず声を上げた。


「さ、流石にもう部外者の俺がいちゃいけないから......! は、離して、」

「だから構わないよ伊吹。籤浜の話だから」


 硬い声色の千秋に、伊吹はその瞳を見開いた。どくん、と嫌な風に心臓が高鳴った。

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