第9話 会議室
ひどいです、と加賀美は端的に、まずそう言った。
「根本的に、上層部に法令遵守の精神がありません。役員の1人に、法を守れば会社は潰れる、なんて言われて頭が痛くなりました」
社長室の隣に併設されている会議室に入ると、加賀美から資料が配られた。予定になかった伊吹の分の資料は、加賀美の分をくれた。なので、加賀美は資料なしで話しているが、何も見ずともスラスラと話をしている。優秀な人なんだと思う。
「社員間もハラスメントだらけで、小山なんか、まだ若いですし、女性でしょう? セクハラを受けた、と語ってくれた女性社員に同情して一緒に泣いちゃって大変でしたよ」
ふむ、と千秋は顎に手を当てて、眉間に皺を寄せて資料を眺めている。
「粉飾も酒井が今判明している分をまとめてくれました。皆さんが読んでいる次のページに、今分かっている負債が書いてあります」
伊吹は震える手で、ページをめくる。そこに書いてあった負債の額に、ひゅう、と息を吸い込み、手に持っていた資料を机の上に全て落としてしまった。落とした資料は隣に座る刹那がまとめ直して、伊吹の前に置いてくれたが、また持てる精神状態ではなかった。
加賀美は、伊吹に心の底から同情した様な目を向けた。
「きっかけは、不運ではあるんですが、大規模な設備投資したタイミングで世界的大不況が起こって。緊急避難的に粉飾を行いました。これが最初です」
まだ伊吹が小学生の頃だ。まだ子供だった伊吹も覚えているぐらいの世界的大不況が起こった。世間や大人達の空気に当てられて、学校の教室の雰囲気も暗かったし、確かあの辺りの父は珍しく定期的な食事会を何度もキャンセルするほど忙しく、会う事があっても子供でも分かるくらいイライラしていた。共にいても、碌に話しかける事もできなかったほどだ。
「その後も、債務を解消できず、負債は膨らみ続けました。本業に関係のない赤字事業もありますし、役員達による資金の私的流量、ビジネスモデルの陳腐化、杜撰な会計処理など、現時点わかっているだけでも問題は山積みです」
刹那は、表情をかえず資料を見つめつつ、顔を真っ青にした伊吹の顔色をうかがっている。
「不確定なのと、万が一の資料流出に備えて書きませんでしたが、予想される最終的な簿外債務は、会社全体のこれくらいです」
加賀美は、ホワイトボードにその額を書いた。
「そのうち、うちで引き取る分は?」
「これくらいです」
千秋の言葉に、加賀美は膨大な額の数字の下に、また数字を書く。確かに減った。けれども、あまりに多すぎる額なのは、変わっていなかった。
「なるほどね……」
千秋は、全て目を通した資料を雑に机に投げた。資料作成の責任者の前でそうしてしまったのも仕方がないくらい、内容は酷いものだった。
「やっと分かったよ。伊吹の父があれだけ伊吹を探し回ってきた理由」
千秋は、深いため息をついた。
「ようは、さっさと色々押し付けたかったんだね。会社を畳んだら、粉飾決算で自分は責任を問われる。だけど誰にも打ち明けられず、社内でこんな面倒事を支えてくれるだけの人望も優秀な番頭もいなかった。だから、伊吹に全て押し付けるしかなかったんだ。で、その後自分は海外にでも逃亡して知らん顔。こんな所だろう。驚く程底の浅い事だ」
「全く許せない。そんな事の為に伊吹はずっと……」
資料を読み終えた2人からそれぞれ感想が出るが、伊吹はもう何もいう事ができなかった。目の前の数字と、沢山の人の苦労と、その報われなさ。全て、伊吹の目の前に高い壁の様に聳え立って、ずっと、ずっと、自分の為だけに逃げてきた伊吹の前に立ちはだかっている。
「い、いまから、でも」
口の中が、カラカラに乾いている。
「やめられないのか」
伊吹の震えた声に、3人の目線が一気に伊吹に集まった。
「ぜ、全部全部、親父が悪いんじゃないか。このままじゃ、こんな負債を、この会社が背負う事になるなんて、そんなの、駄目だ、絶対」
前を向く事ができない。体が震える。その中でも、伊吹は必死に言葉を発した。
「せ、せめて、俺がやらなきゃ。誰かに任せるのでなく、俺が、全部、片を、つけなくては」
震えながらも、なんとか立ち上がろうとする。けれど、それができなかった。誰かが、伊吹の肩を押して立たせない様にしていた。
「伊吹、大丈夫だ」
刹那だった。刹那の方が立ち上がって、伊吹の右肩を強い力で押さえつけていた。
「そうだね。この負債の額も予想の範疇だ。なんなら思ったよりも少ないくらいだ」
「嘘つけ! ホワイトボードを見て目を見開いていた!」
チッ、と、千秋は部下の加賀美がいるのに思い切り素を出して舌打ちを打った。
「こういう時は目ざといな……。でも、予想の範疇だったのは確かだよ。そこは嘘をついてない」
「でも、多かったんだろう!」
「ビジネスにおいて、単純な数字の多寡は問題じゃない。だからこの議論は無意味だよ」
千秋はピシャリと言った。
「でも、こんな、額……」
今判明している負債ですら多額なのに、まだ予想の段階でホワイトボードには膨大な額の負債が書かれている。もしかして、もっと多くなるかもしれない。それに頭がクラクラした。そんな混乱している伊吹に、刹那は肩に手を置いて、強く椅子に伊吹の体を押し付けたままだった。
「伊吹。迎えに行った日に言っただろう。全部織り込み済みだって。もう今更止められないし、止める気もない」
「共倒れになったらどうする!」
「ならない。俺たちを見くびるな伊吹」
「でも、本当に駄目だ、せめて、俺が、俺がなんとかしないと、」
「伊吹さん」
3人のやり取りを見守っていた加賀美が、そっと伊吹に声をかけた。
「お気持ちは分かります。でも、この計画は以前から進められてきました。その分、こちらも準備しています。どうか安心してください」
「でも、無関係な誰かが巻き込まれていい訳ないでしょう!」
「無関係じゃない!」
刹那は、いきなり大声を出して、伊吹の両肩を掴んだ。
「全然、無関係じゃない!! 2度とそんな事言うな!!」
肩を痛いほど掴まれ、顔を近づけられて、至近距離でそう叫ばれる。それに伊吹は何も言えなくなり、目を見開いて震えていた。
「伊吹さん」
また、加賀美が優しく声をかけた。
「私は、あなたがずっと1人で逃げていた事を、間違いとは言いません」
伊吹は、その優しい声にゆっくりと加賀美へと顔を向けた。
「でも、正解とも言えない」
加賀美は、困った様に笑っている。
「あなたの様な、礼儀正しくて優しい人が、20代の若い時間を逃げる為に費やさなくてはならなかった事、心から同情します。もしも自分の子があなたの様な目にあったら、と思うと、とても心が痛む」
「……」
「社長も、刹那さんも、あなたの事をとても心配していました。せめて、この2人の手は、受け入れてくれませんか」
「でも、迷惑を、かけるわけには」
「迷惑なんかじゃ、」
「少し黙れ刹那」
言いかけた刹那を一声で千秋が黙らす。そしてアイコンタクトで加賀美に合図すると、加賀美は、再び口を開いた。
「先ほど言った通り、この計画は最近始まったのではありません。刹那さんが入社した2年前から刹那さんが中心になって進められてきました。それだけ、困難だったんです」
加賀美は、優しく伊吹に話しかけ続ける。
「あなたは先ほど、自分で片を付けると仰っていましたが、それでは、貴方のお父様と何が違いますか?」
その言葉に、伊吹は加賀美を見つめた。自分を穏やかに見つめる加賀美の瞳に、まるで、自分が幼い子供に戻ったかのような心地がした。
「経営が苦しくなる事は、会社経営をしていれば当然ありうる事です。その事が問題なのではなく、誰にも言わず抱え込んで、結果不正に手を染めた。これが、お父様の一番の問題です」
「俺が、逃げずにいれば、」
「自惚れてはいけませんよ」
優しい言い方は変わらない。しかし、厳しい言葉だった。
「全てのビジネスは1人ではできません。沢山の人間が協力しあって、ようやく成功できる。それを忘れて、誰にも弱味を見せず、相談もなく、勝手に不正をした人を、誰も顧みません。だから、あなたも、実の父の元から逃げ出したのでしょう?」
「……」
何も、言えなかった。
「人は、支え合って生きるものなのです。それを忘れて、自分が、自分が、はいけませんよ。あなたの力になりたい人を、蔑ろにしてはいけません。それを、どうか忘れないで」
加賀美は、そう締め括った。
伊吹は、俯き、唇を噛み締め、固く拳を握るよりほかなかった。
刹那は、ずっと、そんな伊吹の肩を強く強く、掴んでいた。
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