第20話 真っ当に生きるとは
荷物を詰め終えたスーツケースを叔父に渡すと、叔父はしっかりと頷いて受け取ってくれた。
「結構軽いな?」
「旅の準備は慣れてるからね。荷物を小さくする術も」
「それもそうか」
大きなショッピングモールの駐車場で、叔父は車のトランクを開けるとそこに買ったばかりのスーツケースを入れる。子供がしゃがんだぐらいの大きさの紺のスーツケースは、トランクにしっかりと収まり、叔父はよし、と真新しいスーツケースを軽く叩いた。
「このスーツケースと預かっている書類を俺が空港まで持って行って、そこで渡せばいいのか」
「うん。それが一番確実だと思う」
叔父はそうか、と言いながら壁に前向きで駐車した車のトランクをバタンと閉める。一応、周囲を見渡すと、主婦や仕事帰りと思しき老若男女がいるだけだ。誰も叔父と伊吹の事を気にしていない。それに、胸をなでおろした。
「……いよいよ明日か」
叔父は、しんみりと呟いて、伊吹と向き合った。
「早いものだな。あっという間だった」
感慨深そうに叔父は呟く。それに、伊吹は笑みだけ返す。
叔父の肩に指で合図して、車を指差し、その中に誘う。伊吹の意図に気がついたのか、叔父も苦笑しながら、分かった、と駐車場の壁と真正面の運転席に入ってくれた。
「買い物はこれで終わりなんだよな?」
「うん。これで全部」
助手席に座り、扉を閉めた伊吹は、手に持ったメモを叔父に見せる。そのメモにずらっと書かれた項目には全てチェックが付いている。運転席に入った叔父もメモを受け取ると、几帳面に全ての項目を確認して、不備はないか見てくれた。
「全部揃ってるな。不備もない。流石だな伊吹」
真っ直ぐな褒め言葉に照れ臭くなって笑う。それに、叔父も年上の顔をして笑い返してくれた。
「提案したのは俺だが、まさか東京に戻って数ヶ月でここまでの事を準備するなんてな」
「それ、褒めてるの?」
「褒めているよ。それに手伝う事ができて、内心面白く思っているぞ?」
まるでスパイ映画だ、と笑う叔父は、確かに楽しそうにしていた。
「ま、自分がお前に同じ事やられたら、と想像するとゾッとするがな。そこだけはあの兄弟に同情してやる」
「……珍しいね、おじさんがそう言うのは」
「気持ちに余裕ができたんだよ」
そうだ、と声を上げると、叔父は後部座席の自分のバックに腕を伸ばした。
「明日はバタバタするかもしれないから、今誕生日のプレゼントをやろうと思ってたんだ」
「あ、そういえば言ってくれてたね」
「ああ。大人が約束を破る訳にはいかないからな」
そうして、叔父が取り出したのは、長方形の化粧箱だった。真っ白な箱に、サテンの茶色のリボンが巻いてある。
「これから学生になるお前に送るには、定番になってしまうが」
リボンを解き、箱を開けるとそこにあったのは万年筆だった。黒のペン軸に、伊吹の名前が筆記体で刻まれていて、インクもセットで付いている。
箱から取り出して、手に持ってみる。
万年筆は、しばらく使う内に手に馴染む、というが、この万年筆はもう既に伊吹の手に馴染んでいる気がした。
「……ありがとう、おじさん。大切にする」
伊吹は、万年筆を箱にしまい直し、バックに大切に入れる。伊吹の嬉しそうな様子に、叔父は安心したように笑っていた。
「お前の祖母も、きっとお前を応援してるよ」
「……そうかな。心配ばっかりだと思うけど」
「心配していても、応援はしてる。亡くなる間際まで、お前の事を案じていたじゃないか」
叔父は、遠くを見る様な目で、前方を見つめている。そこには壁しかない。けれども、叔父のその前を見つめる瞳には、沢山の記憶が映っていた。
「お前の幸福を誰よりも願ってた人だから。俺に何度も何かあったら頼むって言ってたんだ」
「ばあちゃんが、そんな事を頼んでたんだ」
「まあな。俺1人で見舞いに行った時に、頼まれた」
伊吹も、前を見て祖母の最期を思い出す。
祖母の身内という身内は、伊吹だけだった。
祖父は伊吹が生まれる前に亡くなっていて、実の娘である伊吹の生母は、産まれてすぐの伊吹を実家に置いて家を飛び出してから、結局祖母が亡くなるまで、一切帰ってこなかった。伊吹が初めて生母と直接会ったのは、祖母の葬式が済んだ後だ。相続の事があるので、行政の力を借りて連絡を取って、ようやく生母は実家に帰ってきた。
でも、生母は多くは語らなかった。伊吹も、ほとんど初めて会う生母に何を話せばいいか分からなかった。簡単な挨拶と、相続に関する手続きの為の話をしただけだ。自分を置いて飛び出した、という事だけ伊吹は知っていたから、もしかしたら自分に金を集ったり無茶な要求をするのでは、と警戒をしていたが、生母は静かに、相続放棄をする、とだけ告げた。必要な書類を書き、その手続きだけして、そのまま家を出て行った。連絡先の交換はしなかった。向こうも、何も言わなかった。
祖母は、苦労の多い人だったのだという。近所に住む祖母の友人が葬式の時に語ってくれた。
けれども、そんな苦労の多い人生の中でも、祖母は伊吹を大切に育ててくれたし、とても、優しい人だった。伊吹が一番、頼りにした人だった。残した財産は僅かだったが、代わりに、葬式には祖母の人柄を偲んだ人ばかりやってきた。皆、祖母はきっと天国に行ったに違いないと話していた。
「……おじさん」
「なんだ」
「俺、真っ当に、生きてるかな」
伊吹は、膝の上の拳を強く握った。
「俺、ばあちゃんが望んだ通りの、真っ当な人間に、なれてるかな」
祖母がもう危ない、と深夜に病院から連絡が来て、慌てて伊吹は病院に向かった。着いた病院で、年配の看護師に言われるがまま、伊吹は祖母が横たわるベッドのそばで、祖母の皺だらけで、骨が浮き出ている手を握っていた。
その手はもう力が無く、とても、ひんやりとしていた。
このまま祖母は死ぬのだと、その場にいた誰もが思っていた。ずっと育てていた孫に手を握られて、眠るように亡くなるのだと伊吹もそう思っていた。だから、言葉を尽くすよりも、伊吹は祖母の手をしっかりと握っていた。
けれども、祖母は、最期の最期に目を覚まして、伊吹の
顔を見て、はっきり、こう言ったのだ。
――あなたは、真っ当に生きなさい。
そして、祖母は亡くなった。
伊吹が社会人になって一年目。全てを捨てて、父から逃げ出す、ほんの数ヶ月前のことだった。
「俺、逃げていいのかな」
千秋は、とても頼りになる親友だ。刹那は、何でもない伊吹との未来を固く信じている。あの2人を置いて、自分はまた逃げてもいいのだろうか。
それは、本当に真っ当な道なのだろうか。
「……」
叔父は、息を呑んだ。
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