第26話 執着と覚悟と嘘

 どんな熱でも、時間と共に冷めるものだ。


 伊吹は、2人と話しているうちに自らの、逃げよう、という熱が冷めるのを感じていた。


 だって、千秋も、刹那も、伊吹の事を大切に思っている。忙しい合間を縫って、伊吹の誕生日を祝おうとしてくれているのだ。2人の事を思えば、黙って海外に行く、なんて、とても難しい。2人とも、立派な、瑕疵一つない、優秀な人間なのに。


 だから、父の事を打ち明けてくれるのなら、伊吹も打ち明けようと思っていた。とても、怒るかもしれない。悲しませるかもしれない。散々練った計画や毎日警戒しながら過ごした日々が無駄になる。叔父もどう思うか。けれども、打ち明けようと、思っていた。


 しかし、2人は黙ったままだった。


「伊吹」


 刹那は、伊吹の手を握ったまま、微笑んでいる。


「誕生日の、プレゼントがあるんだ」


 刹那は、ようやく伊吹の手を離した。けれど、ずっと掴まれていた手は変わらず真っ赤で、内出血もしていて、刹那の手の痕がくっきりと残っている。離されていても、左手から痛みは引かなかった。


「伊吹は、格好いいから。アクセサリーの一つ、身につければいい」


 刹那が鞄から出したのは、真っ黒な、正方形の化粧箱だった。茶色のリボンの飾りがついている。高級感のある箱だが、ブランドの名前は書いていない、ただ、真っ黒な箱だった。


「伊吹。開けてみて」


 刹那は、先ほどまで握られていた左手の上に、その箱を乗せる。痛みは引いていない。けれども、刹那の尋常ではない雰囲気にその痛みを訴える事もできない。軽い箱は重々しい空気を放ちながら、伊吹の左手の上にある。


 伊吹は、震える右手で、その箱を開けた。


「きっと、似合う」


 刹那の微笑み。

 箱の中には、ネックレスが入っていた。シンプルなプラチナのチェーン、大きめの、プレート型のペンダントトップの中央には、黒い石の様なものが埋め込まれていた。


「伊吹」


 刹那は、微笑んでいる。そして、震える伊吹の代わりに箱の中のペンダントを手に取って、伊吹の首につけた。


「いつでも付けていてくれ、伊吹」

「愚弟、いい加減にしろ」


 千秋の、感情の読めない声。熱がこもった様な、焦りが混じっている様な、その実、申し訳なく思っている様な――嬉しそうな。


「伊吹、手は大丈夫か? その箱は、ひとまず机に置いてくれ。今、救急箱を持ってきてもらうように頼む。その後話を、」

「駄目だ」

「……お前なぁ! もういい、勝手に話す!」


 千秋は、ガシガシと頭皮を掻きむしった。


「すまない、伊吹」


 そして、正座になって、伊吹に頭を下げた。


「君のお父様は、自殺未遂をしたんだ」

「……」

「これは、明らかに俺たちの行動が引き金だ。元々の原因は、お父様自身だけど、きっかけになったのは俺達だ」


 だから、すまない、と、千秋はそう言って、伊吹に謝った。


「あの人が死ねば、多額の債務が君にのしかかる」


 千秋は、頭を上げるが、正座は崩さない。初めて見るような、苦々しい顔だった。


「相続放棄の対象にはなるけど、きちんと知らなければ手続きを取ることもできないのに。それを差し引いても、身内なんだから、ちゃんと言っておくべきだった」

「千秋……」

「一命は取り留めた、という話は聞いている。無事だ。でも、君のお父様は、これから厳しい道を歩むことになる。また、いつ死を選ぶか……」


「死ねば、よかったんだ」


 また、すまない、と謝ろうとした千秋を遮るかのようなその声に、千秋はぎょ、としたように目を見開いた。


「そうすれば、伊吹は俺の側にいたのに」

「……愚弟。言っていいことと悪いことがあるって、わからないか?」


 信じがたいものを見る目で、千秋は刹那を見つめた。


「後、お前、なにを都合のいい事を言っている? 仮に、お父さまが亡くなっても、相続に関する事なら、ともすると伊吹の方が知識があるって、想像つかないか?」

「いくらでも手はあるだろう?」

「は、はぁ?」


 千秋は、すっかりと混乱しているようだった。

 

「手って……」


 言いかけた千秋は、何か気がついた、と言わんばかりに目を見開いた。そして、正座を崩し、机から身を乗り出して刹那の胸ぐらを掴もうとする。けれども刹那は一歩後ろに下がり、胸ぐらを掴ませなかった。

 空ぶった腕とともに、ぎり、と歯軋りをする千秋だが、身を乗り出したまま、勢いよく、座布団に座ったままの伊吹に首を向けた。


「伊吹答えろ! 君、住所変更はしているか!」

「じゅ、住所変更?」

「郵便物のだよ! 弟と同居してから、君宛の郵便物はどうなっている!」

「そ、それは――」


 逃亡時代は、伊吹宛の郵便物は祖母と暮らした実家に届いていた。偶に、叔父がこっそりとやってきて、郵便物の確認をしてくれたのだ。

 今は刹那と同居している。郵便局へ転居届も出しているから、伊吹宛の郵便物があれば、今、刹那と暮らしているあのマンションに届くはずだ。海外渡航の為の書類は、全て叔父の家の住所を書いたから、そちらに届くが。


 しかし、思い出す。

 同居してから、一通も、伊吹自身で、自分宛の郵便物を受け取っていない。届いていても、帰宅した刹那に、「エントランスのポストに入っていた」と手渡されていた。


「どうりでこの所、総務に自分で郵便物取りに行くと思った……!!」

 

 思えば、おかしな話だった。

 叔父は、籤浜の面々は誰か会社の事を押し付けられそうな人間を探し回っている、と聞いていた。逃亡時代も、伊吹に帰ってくるように、という内容の手紙が何通も実家のポストに入っていた、と叔父は教えてくれていた。それが、一通もないのだ。

 おかしな話だ。「犀陵の元にいるなら、そのまま自分達を助けるよう説得しろ」なんて、籤浜の奴らが1番言いそうな話なのに。


「お前もしかして、伊吹の父が死ぬのを待ってたんじゃないだろうな!」


 その言葉に、伊吹の目は見開いた。


「その連絡を握りつぶして、そのまま熟慮期間が過ぎるのを待って、伊吹に多額の債務を相続させた後、債務を自分の元に一本化させようとしたんじゃないか!?」

「……すごいな、千秋。流石は、父さんが会社を譲るだけの事はある」


 刹那は、笑っていた。伊吹は、信じられない気持ちで刹那を見つめた。

 祖母が亡くなった時、相続の手続きや仕組みを一通り調べたから分かる。相続をするのならともかく、親の借金などの理由で相続を放棄する場合、数ヶ月の熟慮期間、という時間があって、それを過ぎてしまえば、自動的に、資産も負債も全て相続することになってしまうのだ。だから、もしも刹那が、「父が亡くなった」という手紙などを隠していて、そのまま熟慮期間が過ぎた場合、父が抱える多額の債務も、伊吹が相続する事になってしまうのだ。

 その後、伊吹が「気が付かなかった」などと主張しても、通る事は難しいだろう。刹那が、家庭裁判所に伊吹と同居している証拠と届いた手紙を持っていって、「伊吹は知っていた」なんて告げれば、おそらく、家庭裁判所は、刹那の方を信じる。


「ッ! お前なぁ! やっていいことと悪いことがあるぞ! 何のために、俺達は籤浜を、」

「伊吹を側に置くためだろう」


 刹那は、千秋を真っ直ぐに見つめていた。


「いい加減、自分を誤魔化すのを止めろ、千秋」

「はぁ!?」

「千秋だって、伊吹の事、好きだろう?」

「当然だよ! 何を今更、」

「じゃあ、側にいて欲しいだろう?」


 刹那は、真っ直ぐに千秋を見ている。まるで、その瞳で飲み込む様に、千秋を見ている。


「伊吹を自由にするんじゃなくて、俺たちに縛り付ける為に、俺たちは頑張った。そうだろう?」

「お、お前、」

「3人で一緒に住んでいた時、千秋は伊吹を側に置く為にずっと頑張っていた。違うか? 伊吹が自分を支えてくれれば安泰だって、そう言っていただろう」


 確かに、そうだ。

 千秋は伊吹に、そんな事を言っていた。伊吹だって、そんな未来を信じていた。


「なあ。千秋は、俺が伊吹の事を"そういう"意味で好きなの、知っているだろう。伊吹は、千秋と同じ、ヘテロなのかもしれないのに。でも、俺を伊吹の側に置いたんだ。なら、俺たちは共犯だ」


 刹那は、手を伸ばした。

 真っ直ぐに、笑いながら、兄を誘った。


「本当に凄いな、俺の思惑に気づくなんて。でも、気付きすぎだよ。……千秋も、同じ事を考えたんじゃないのか?」


 え、と、伊吹の口から声が漏れる。

 千秋の体が、震えている。動揺、している。


「伊吹を、自分に縛りつけたいと、思ったんじゃないか? ずっと側にいてほしいと、思うことはなかったか? 伊吹が帰ってきた時もう逃さないと、思っただろう?」


 千秋、と刹那が、兄の名前を呼んだ。


「また、伊吹が帰ってこない部屋で、伊吹を待ちたくないだろう?」

 

 千秋は、目を見開いた。

 そして、伸ばした腕を、ゆっくりと下ろした。


「伊吹」


 静かな、決意に満ちた、燃え上がるような声。


「答えてくれ」

「な、なに、を」

「さっき、この愚弟が言っていたね、昼間、いつもいないと。どういう事だい?」


 先ほど、刹那に向けられていた瞳が、伊吹の方を見ている。目が、ごうごうと、燃えている。


「それと、その母方の叔父上についても話を聞きたいな。君のお父上の自殺未遂は限られた人間しか知らないはずだ。俺達か、籤浜か」

「それは、」

「後、スマホが新しくなっているね」


 千秋は、机の上の伊吹のスマホを指差した。


「以前は長年使い込んだ、古い型のスマホを使っていたのに、そのスマホは随分と新しい。確か、刹那は先ほど、渡した金は生活費以外使っていない、と言っていたのに」

「バイトだよ、知っているだろう……!」

「へえ」


 千秋の片眉が上がるが、その瞳は燃えたままだった。伊吹を、信じていない。


「その端末、SIMフリーのやつじゃないか?」


 伊吹は、慌てて机のスマホを握りしめた。


「見せろ」


 千秋は、その行動に目を釣り上げて、手を差し出した。


「見せるんだ、それを」

「なんで……!」

「理由など、言わずとも分かるだろう?」


 真顔で、伊吹を睨む千秋は、ホテルで働いていた伊吹を見つけた時と、同じ顔をしていた。


「君を信じたいだけなんだよ」


 声は、優しげだった。

 けれども、明らかに意識して声色を作っているし、変わらず、その瞳は燃えている。


「伊吹」


 刹那が、歩み寄ってくる。


「さっき、ずっと側にいる、と言ってくれたな。あれ、本当だよな?」


 刹那の瞳が、暗い。深い。


「嘘は、ついていないよな?」


 燃える炎と、深い深淵と。


 4つの瞳が、伊吹を見つめている。捉えようとしている。4本の腕が、伊吹に伸びる。捕まえようとしている。

 

 だから。


「ッ!」


 伊吹は、逃げ出した。

 

 スマホを握りしめて、痛む手で辛うじて掴んだ自分のバックを持って、個室から逃げ出した。廊下ですれ違った仲居が慌てて脇に避ける。「待て!」と叫ぶ、刹那の声。


 玄関まで、一気に走る。靴を下駄箱から取り出す余裕もないから、そのまま外に出た。


 走る、走る。


 足が痛くても、手が痛くても、走る。


 あの日、父に跡取りになるよう告げられた日を思い出す。あの時もこんな風に走った。風は冷たくて、日は落ちて辺りは暗くて、すれ違う普通の人達をうらやみながら、街灯がない暗い道ばかり選んで、がむしゃらに走った。


 未来は見通せない。信じていた物は崩れていく。自分の人生なんて誰かの意思一つ。自分は所詮、誰かのスペア。そんな絶望を思って、涙を流して走った。


 いつまでも、いつまでも、伊吹は走っていた。



 夜の暗闇だけが、そんな彼の道行を受け入れている。伊吹の背中は、暗闇の中、真っ直ぐに消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る