第27話 空港にて。
お兄ちゃん、と舌足らずな声と共に差し伸ばされた腕の下に手を入れて、伊吹はその軽い体を抱き上げた。ねだられるがまま、大きな窓の近くまで歩き、外の景色を見せる。
少女の大きな目はキラキラと輝き、窓の外に広がるエプロンに並ぶ白い飛行機を指さしていた。
少女は、奥の滑走路上の、今まさに離陸せんとする飛行機に気がつくと、それしか見えていない、とばかりに窓に手を当てて見つめた。飛行機は凄まじい速度で加速した後、鳥の様に大空へ飛んでいった。
「すっかりと懐いてるわねぇ」
まだ硬い声音のその声に、伊吹も一瞬動揺する。けれどもゆっくりと振り向くと、穏やかな笑みを浮かべた女性が立っていた。
「ママ」
腕の中の少女は、彼女の母親に向かって腕を伸ばす。近寄ってきた女性に少女を渡そうとするが、少女は伊吹の腕の中から出るのを嫌がった。女性は、その白い手を少女に伸ばすと、少女は伊吹の腕の中の、嬉しそうに母親と手を繋いでいた。
「ごめんねぇ、伊吹くん。ちょっと話し合いが長引いちゃって。娘の世話してくれてありがたかったわ」
「い、いえ」
伊吹は、女性の目を直視できなかった。
伊吹への敵意は感じない。けれども、業火は収まったとはいえ、その怒りの火は完全には収まっていない。また、少しのきっかけで激しく燃え上がりそうな雰囲気は変わっていなかった。
「飛行機見てたの?」
「うん」
「お兄ちゃんの近くから離れちゃダメよ」
腕の中の少女は、言われずとも、という様子で伊吹の腕の中に収まっている。愛らしい様子に自然と笑みが浮かぶ。女性も、娘がすっかりと安心している様子に、また、安心した様子だった。
「ここにいたのか」
その声に伊吹はそちらに顔を向けた。そこには、すっかりと疲弊した顔で、大きな封筒を小脇に挟み、スーツケースを転がす叔父の姿だった。少女は、「パパ」とこれまた嬉しそうに笑って、伊吹の腕の中で手を振っている。
「伊吹の言う事ちゃんと聞いていたか?」
「うん。おにいちゃんと一緒にいた」
「騒がなかったよ。いい子だった」
「あら、猫を被っているのかしら?」
叔父の妻である可奈子は、クスクスと笑っている。でも、怒りの火は完全には消えていない。この笑みも嘘ではないだろうから、女性って本当に器用だな、と思う。叔父はその笑みに叔父の家から空港までの道行の中の、車の中と同じ様な顔のまま、顔を引き攣らせている。
「おにいちゃんも、お空飛ぶの?」
少女の無邪気な質問に、伊吹は微笑んだ。
「そうだね。飛行機に乗って、空を飛ぶよ」
「一緒に行きたい」
「もう少し、大きくなったらね……」
伊吹は少女の頭を撫ぜながら苦笑した。
留学先は、物価は安いが治安は日本とは違っていいとは言えない。そもそも、いくら治安のいい国といえども、海外旅行には少女はまだ幼すぎる年齢だ。だから、少女のおねだりを曖昧に濁す。
「いつも人見知りなのに、こんなに伊吹君に懐いているなんてすごいわ」
可奈子は、今回ばかりは心から驚いた様な表情だった。
「もっと早く伊吹君のこと紹介してくれたらよかったのに。ねえ貴方?」
「ヒッ」
どわん、と可奈子から漏れ出した瘴気じみた圧に、叔父はちょっとフォローができないくらいの情けない声を漏らした。伊吹は、叔父の娘にその声を聞かせない様に、さりげなく耳を塞いでいる。父親を情けないって思うのって、子供でも結構しんどいものなので。祖母も言ってた。
「ほんっとうに! 早く言ってくれたらよかったわ!」
可奈子は笑みを消し、伊吹が娘の耳を塞ぎ、また背を向けてまた飛行機を見させているのを確認してから、叔父に詰め寄った。
「どれだけ不安な思いをしたと思ってるの! 一緒に暮らしていれば、何か貴方がコソコソしてるの分かるわよ! 浮気か不倫かって悩んで、誰にも言えなかったのよ!」
「ほ、本当にすまない、可奈子」
「部屋に知らない書類あるし! しかも海外渡航に関する書類だし! まさか海外に失踪する気かって、気が気じゃなかったんだから!!」
全くもう! と、可奈子は腕を組んだ。
「お金は確かに多額よ。でも今セーブしているとはいえ私も働いているし、貴方がずっと伊吹君の為にって貯めたお金でしょ。なら私も何も言わないわよ。なのに、口出しする様なケチケチした女と思われていたのが、本当に、一番、ムカつくわ!」
ちらり、とそちらを伺えば、叔父は何も言えずに怒る妻に向かって頭を下げ続けている。怒られている原因は伊吹な為、申し訳ない、と思うが、普段は真面目でしっかり者の叔父の、そんな姿が、少しだけ、面白かった。
ぐい、と首が引っ張られる。下を見れば、抱かれている叔父の娘が伊吹が首から下げるネックレスを引っ張っている。
「……気になるの?」
静かに聞いてみると、腕の中の少女はこくり、と頷いた。
「お兄ちゃんのなの?」
「……そう、だね」
「ふうん」
少女は、じっとその小さな手のひらにペンダントトップのプレートを入れて、じっと見つめている。
刹那が送ったペンダントは、変わらず伊吹の首にかかっていた。
確かに叔父は質実剛健、といった感じで、あまりお洒落に気を使える方ではない。仕事はスーツだし、私服は妻任せなのだと言っていた。だから、男がアクセサリーをしているのが珍しいのだろうか。
「この黒いの、何?」
少女は、プレートの中央の黒い石の様なものを指差した。
「プレゼントで貰ったものだから……。俺にも、よく分からない」
黒い石の様な物は、明かりに反射して鈍く光っている。少女は、気になる様で、その柔らかな爪で黒い石の縁を引っ掻いている。
「ごめん。それ、大事なんだ」
伊吹は、そっと少女の手を止めた。
「だから、大切にしてくれると嬉しいな」
――なんて白々しい。
伊吹は、手を止めて伊吹の胸に猫の様に甘える少女の頭を撫ぜながら、前方を睨んだ。
店から逃げ出した伊吹が頼ったのは、やはり叔父だった。
しばらく走った、伊吹すら現在地が分からない場所でようやく限界が来て立ち止まった。あたりはもう真っ暗で、東京にいるというのに、街灯も無くて、草木も生い茂っているような場所だった。
スマホを見ると、刹那から夥しい数の着信が入っていた。帰ってこい、どこにいる、逃げられると思っているのか、必ず見つけ出す。――絶対に逃さない。
そんなメッセージだらけで、背筋が震えそうだった。既に約束をしているから朝になれば空港に向かえばいい、と思っていたのに、いつ夜闇の中から刹那が現れるのではないかと不安で。その不安に押し潰されそうで、伊吹は震える手で叔父に連絡を取った。
叔父は、わずかな情報から伊吹の現在位置を割り出して、すぐに伊吹を迎えに来てくれた。そして、自分の住む家に連れて行ってくれた。
初めて会う叔父の妻と娘は、ひとまず伊吹を歓迎してくれた。娘は人見知りというが、すぐに伊吹にも懐き、部屋まで案内してくれて、伊吹も眠るまで絵本を読んでやった。その後、叔父に呼び出されて、叔父の妻と話したのだ。
叔父の妻は、彼女の夫と伊吹が自分に黙って行動していた事は怒った。怖かった。けれども、伊吹の事は受け入れてくれた。絶対に返す、と頭を下げた金の事も、返さなくてもいい、と夫婦2人で言ってくれた。
可奈子は、「この人の昔のことは、知っているから」とだけ、言っていた。叔父は、そんな妻を、父とは似ていない、初めて見る様な顔で見つめていた。
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