十、契約書はちゃんと読んでから署名しましょう



 ""となった妖だったモノが呑み込まれ、闇夜に浮かんでいたあの重い扉が消えた。元の静寂が訪れたのを確認すると、梓朗は慣れた手つきで眼帯を付け直し、ゆっくりと瞼を閉じる。


「弥勒様、」


 駆け寄ってきた識の頭を、梓朗は無意識に撫でていた。


「私の法力はまだ大丈夫ですから、」


「そうか······なら、いい」


 識の法力の受け取り方は、『頭を撫でてもらうこと』なのだが、そういう意味で梓朗の傍に寄ってきたわけでない。


「弥勒様、気に病むことはありません。幽世かくりよの平穏のためには、仕方のないことです」


「問題ない。久しぶりに鍵の力を使ったから、少し疲れただけだ」


 ""に堕ちた者でも、完全に堕ちていなければ救える時もある。今回の件は特別案件だ。"無"にすのは、もうどうにもならない場合のみ。


「にしても、何の前触れもなく現れるなんて、」


 鬼灯は自分の仕事が終わると、さっさと紫紋と入れ替わってしまったようだ。瞳の色がいつの間にか漆黒に戻っていた。


「俺は先に帰る。紫紋は、あいつと用事を済ませてから来い。なにか聞かれたら、適当に答えてやるといい」


「隠す必要はないってことだね、」


「適当に、答えろと言った」


 はいはいと紫紋は小さく笑って、その意味を察する。識と並んで去って行く小さな背中を見送って、誰もいない広い通りを、ふたりとは反対方向へと歩き出す。


 平良と合流してすぐ、"夜"を告げる鐘が、カンカンと幽世かくりよ中に鳴り響く。それを合図にして、どこかへ行っていた妖たちが少しずつ大通りに戻り始め、提灯や灯篭の灯りが次々に燈っていく。


 あの静寂がまるで夢か幻だったかのように、いつの間にか元の賑わいを取り戻すのだった。



******



 紫紋と合流し、ほとんど無傷であることを確認した平良は、改めて目を輝かせていた。鬼灯に対しての印象は、「ちょっと口は悪いけど、強くて格好良いお兄さん!」で、彼の下僕にしてもらった平良は、まるで主人を見上げる忠犬のような眼差しを向けている。


「鬼灯さんも無事っすか? 俺、御礼を言いたくて」


「気にしなくていいよ。あれ・・は礼を言われるような存在じゃないから」


 にっこりと満面の笑みを浮かべ、それ以上奴の話題を出すなという無言の圧力を感じた平良は、あはは····と苦笑を浮かべる。


(紫紋さん、鬼灯さんのことが嫌いなのかな?)


 ちなみに紫紋は、「優しくて頼りになる格好良いお兄さん!」である。そんな紫紋があんな風になるのは、鬼灯が関わる時だけ。平良は気を取り直して、座敷童子(兄)の方へ身体を向ける。


「さっきはありがとう、扉を開けてくれて。俺も混乱してて、御礼をまだ言ってなかったっすよね?」


「い、いえ! 困った時はお互い様ですし、弥勒様のお知り合いなら当然です」


 屈んで視線を合わせ、ふたり、過ぎ去った脅威に対して安堵する気持ちが強い。


「あ、そうだ! これ、」


 青い上衣の懐から丁寧に白い布で包まれた依頼品を取り出して、座敷童子の手を取り握らせる。その感触に、瞳を大きく開いて平良を見上げてきた。


「もしかして、直ったんですか!?」


「うん、一応確かめてみて?」


「あら、私たちにも見せて頂戴、」


 後ろから覗き込むように菖蒲が、双子の兄の傍に妹が寄り添い、期待の眼差しで手の中の布を見つめていた。ゆっくりと開かれた布の中に、房飾りのついた椿の髪飾りが現れる。それを目にした兄の表情が、ぱあっと一層明るくなった。


「すごい! 元通りになってる! 小春、どう?」


「深冬····これ、私の、髪飾り······良かった······ありがとう、お兄ちゃん」


 小さな声で恥ずかしそうに御礼を言い、うんうんと頷いて、白髪の少女ははにかむような笑みを浮かべる。その笑みに、その場にいた皆がほのぼのとした気持ちになった。


「あらあら、すごいわね。職人たちが皆口を揃えて"無理"って門前払いしたって、この子に聞いたわ。あなた、もしかして生前は名高い職人だったの?」


 菖蒲の"生前"という言葉に平良は色々想うところがあったが、深く考えないことにした。


「俺はちょっと手の器用な、ただの高校生っす」


「こうこーせい?」


 深冬という名の黒髪の座敷童子(兄)が首を傾げる。遅れて小春という名の白髪の座敷童子(妹)も、同じように首を傾げた。


「こうこーせい、ってすごいんですね!」


「こうこーせい、すごい、です」


 キラキラとふたりは大きな瞳を輝かせて見上げてくる。


(あー····なんか色々間違ってるけど、まあ、いいか)


 上手く誤魔化せたかな、と紫紋の方へ視線を向ける。紫紋はふっと口元を緩めて小さく頷いてみせた。しかし目ざとい妓楼の女主人は、そのふたりの視線のやり取りだけでなにかを察する。


「ねえ、あなた、良かったら私の所で働かない? 給料は弾むわよ」


「え? あ、いや、俺は弥勒さんのところの給仕なんで、そういうのは····」


 ずいっと綺麗な顔を近づけ、その着物の隙間から豊満な胸を覗かせて色仕掛けで迫って来る。だが平良は特に気にするでもなく、いつも通りの受け答えでやり過ごす。


(うーん。だいたいの男はこれで落ちるはずなんだけど、この子はまだ坊やだから効果は薄いみたいね、)


 すぐに違う手を考え、菖蒲は胸元からなにか文字がびっしりと書かれた紙を取り出す。ずっとそこに隠してあったにしては、その紙は綺麗に折り畳まれていた。はい、と菖蒲は筆を平良の手に握らせて紙を広げると、一番下の空欄を指差して言う。


「あなたの名前、ここに書いてみてくれる?」


「え? これ、なんて書いてあるっす?」


 その文字は独特で、平良はひと文字も読めなかった。これは妖の文字なのだろうか? 梓朗や紫紋が書く文字は、難しい漢字が多く達筆なのだが、なんとか読めた。しかしここに書かれている文字は、そもそも謎だ。


「菖蒲姐さん、それ契約書でしょう? 平良くんはうちの給仕なので、そういうのは梓朗を通してお願いします」


 紫紋はふたりの間にすっと入り、その紙きれを菖蒲から取り上げる。


「んもうっ! もう少しだったのにっ」


「菖蒲さん、俺、契約書の類は上から下まで数回は読んでからじゃないと、署名しない派なんすよね、なんせそれで色々騙された過去が······、」


「は? え? なに、どういうこと?」


「あはは。本当、君って不運に愛されてるね、」


 笑い事じゃないっすよ~と、平良は頬を掻きながら、その過去を思い出して落ち込む。未成年に契約させる大人も大人だが、とある契約書に署名をしたばかりに、大量のサプリメントが家に届いたことがあった。母親が色々手を回してくれたお陰で、お金も返って来たし大量のサプリメントも返却できたのだが。


 あれ以来、路上や商業施設で声をかけられても、契約書に署名をするのは避けるようにしている。アルバイト先でどうしても署名をしなくてはならない時は、誰も読まないところまでしっかり読んでから署名するようになった。


 回避できる不運は、未然に防ぐ。

 それが、この十七年間で学んだ成果なのである。



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