三十一、敵に攫われるのは、昔からヒロインの役目と決まってる
迫りくる黒い狼を全速力で回避するが、身の丈がすでに違いすぎるため、すぐに追いつかれてしまう。地下は三十畳あると言えど、二メートル以上ある狼と追いかけっこをするには、向いていない広さだった。
(圧倒的に体力が持たないっ)
ぜえぜえはあはあしながら駆け回るが、寒さと息苦しさが相俟って、平良の体力を削っていく。後ろを気にしながら走るので、時折突き出される鋭い爪をかわすので精一杯だった。
梓朗はというと、最初にいた場所から一歩も動いていない。なにか唱えている素振りもなく、ただ呆然と立ち尽くしていた。
(弥勒さん、どうしたんだろう? 顔が真っ青だ······もしかして、)
なるべくあちら側には逃げないように配慮しているが、かなり限界が近かった。おそらくだが、黒狼は自分を疲れさせてから、ゆっくりと美味しくいただく気なのだろう。
でなければ、とっくにあの爪にやられているだろうし、怪我どころでは済まないはずだ。
平良は冷や汗をかいている額を拭い、転ばないように注意しながら走る。黒狼が暴れて駆け回るせいで、箱が倒されるわ袋は破けるわで、食材たちがごろごろと散乱していた。
梓朗は呆然と立ち尽くしたまま、動けずにいた。その理由はただひとつ。犬のような見た目をしている狼を目の前に、身が竦んでしまい、微動だにできずにいたのだ。
(くそっ····よりにもよってなんで犬!)
イライライライラ。
あんなものが"怖い"という自分の中の感情に、正直イラついていた。
それさえも嫌なのに、そのままの姿をした物体が目の前に存在しているだけで、梓朗は恐ろしかった。怖いモノなどないと思っていたのに、こればかりはどうしようもなかったのだ。
(なんで俺はあんなモノが怖いんだ? 失くした記憶と関係してる? とにかく、このままでは平良が持たない····っ)
指先を動かせるか、試しに意識を集中させる。
(なんで動かないんだ! 馬鹿なのか! いい加減にしてくれっ)
絶望した。
なにが怖くて、あれを拒絶しているのか。まったく力が入らなかった。指先が震えているのだけはわかる。
(あれはただの
その言葉を呪文のように繰り返し繰り返し唱えるが、やはり無駄だった。
「弥勒さん! 無理しなくても大丈夫! わんこが怖いの知らなくて、ごめんなさい! 俺は俺でなんとか持ち堪えるので、弥勒さんはその後の事を考えて欲しいっす!」
なぜそのことに気付いたのか。
平良は気を遣ってこちらに大声で謝ってきた。身動きができない事を察して、そんなことを言ってくれているのか。それともただの勘か。
とにかく、梓朗はなんとかしなくてはいけないと首を振る。身体は固まったように動かないが、なんとか頭は動かせた。これは進歩といえよう。
(······やっぱり、犬が苦手なんすね。マジでどうしよう! このまま逃げてるだけじゃ、俺、わんこに食べられちゃうかもっ)
と、思っていたのも束の間、地面から足が浮く感覚と、首根っこを掴まれる感覚を同時に味わう破目になる。
青い着物の上衣の襟をぱくっと咥えた黒狼は、まるで子犬でも運ぶかのように平良をぶら下げると、満足そうに鼻をツンと上に向けた。
「わんこさん! いや、狼さん! 俺は美味しくないっすよっ」
じたばたと自由な手足を動かして気を惹こうとするが、まったく相手にされない。それどころか、なんだか黒狼の様子がおかしい。
きょろきょろと辺りを見回し、なにかを探しているようにも見えた。仕方ない! と平良は袴に手をかける。咥えられている上衣さえ脱げれば、逃げられる気がしたからだ。
だが、思いの外緊張してしまい、上手く解けない。焦る気持ちが、いつもは器用な指先をがちがちにしてしまう。当たり前だ。平良はただの人間。戦う力もない。たとえここで逃げられても、また捕まるのがオチだろう。
「なんか、嫌な予感が····」
黒狼がなにかしようとしているのか、態勢を低くし始める。その予感はまったく嬉しくないが、すぐに的中してしまう。
黒狼は四肢に力を籠め、ぶんと平良は一度地面に近付いたが、気付いた時には地下の扉が目の前にあり、びっくりして顔を守るように腕で防御する。
衝撃はほとんどなかったが、反射的に瞼を閉じている間に視界は明るくなり、一瞬にして外に連れ出されていた。
「ちょ、ちょっと! どこに行くんすか!?」
次の瞬間にはもう薄暗い空の上だった。
よりにもよって、どうしてなんの役にも立たない自分が、拉致されているのか。こういうのって、昔からヒロインの役目だよね? どういうこと!?
(今、わんこを怒らせて落とされても困る! 俺、魂だけの存在らしいけど、この高さから落ちて無事でいられるメンタルないし!)
そもそもどうして自分なのか。これも不運の延長だろうか。この先の結末なんて考えても、悪いことしか浮かばない。
(弥勒さん、わんこがいなくなったから動けるようになってるよね?)
こんな時でも他人の心配ができるのだから、案外今の状況は、そこまで鬼気迫っているわけではないのかもしれない。
考えてもどうにもならない。どこに連れて行こうとしているのか。最初からこれが狙いだったのか。
平良にはまったくわからない。
空の上から見る
黒狼が迷うことなく向かっている先に、これを仕組んだ者がいるのだろうか。
(弥勒さん大丈夫だよね······紫紋さんや識ちゃんは無事かな?)
頭に思い浮かぶのは、家族のように大切に想っている、華鏡堂の仲間たちの事ばかりだった。
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