二十六、現世から幽世へ
紫紋の身体を黒い靄が包み込む。強く濃いその"穢れ"が妖刀から溢れ、意識が飛んだ。その瞳が赤く染まり、表情は自信に満ちていて、嫌味ったらしい笑みが浮かぶ。しかし黒髪は紫苑のように白髪ではなく灰色に染まり、その身体が"穢れ"に呑まれていた。
「こりゃすごいな。はは。褒めてやってるんだ。お前みたいな特異で"稀な"存在、あいつ以外に遭ったことがない!」
確かに、この身体に在る、もうひとつの魂。元の持ち主の魂。今は眠っているが、慣れれば共存もあり得るだろう、かなり特異な存在だ。
あいつ、三上の初代当主と同等、もしくはそれ以上の逸材。
「普通はそこの狂った兄さんみたいに、"
襲いかかって来る"
「妖刀兄さん、あんたは本当にイカれてやがる。よっぽど屈辱だったんだろうな。この俺に封じられていたのが」
だが、もう厭きた。
ずっと望んでいた器を手に入れたのだから、こんな気色悪い妖刀の世話は御免だ。
「じゃあ、ここで因縁を断ち切らせてもらうぜ。悪く思うなよ、」
刀身を下げ、くるりと円を描くように身体を捻らせた。途端、無数の氷の
腕という盾を失ったせいで、無数の細い飛針のような
血の代わりに黒い靄が溢れ出し、宿主を覆っていく。これが、穢れに蝕まれた者の最期であることを、鬼灯は知っていた。
「
両腕と共に転がっている妖刀を視界の端に捉え、ゆっくりと歩を進める。あれはもうとっくに手遅れだったのだ。
ほら、もう"ひと"の形を保っていない。足元に転がる妖刀「
「ひ、人殺し!!」
背後で怯えたような中年の男の声が上がった。ここに生き残りはいないだろうから、様子がおかしいことに気付いた屋敷の周辺の住民だろう。
確かにこの場面だけ見れば、"人殺し"に間違いない。
(やれやれ······せっかく器を手に入れたのに、面倒なことになった)
とえあえず、妖刀を左右の手に持ったまま、鬼灯は一瞬でその場から消え失せた。
その数日後、江戸中に人相書きと罪状が書かれた紙がバラまかれる。噂はどんどん広まり、やがて怒りと恐怖の矛先は、大罪人となった三上紫紋へと向けられるようになった――――。
******
夜の裏路地をふらふらと歩きながら、紫紋はとうとう地面に倒れ込む。あの日、目の前で起こった事。鬼灯が入れ替わった後、元に戻ったのは良かったが、そのすべてを紫紋は忘れてしまっていた。
最後の記憶は、道場で皆と稽古をしていたところまで。
あの日は、珍しく兄がいなかった気がする。
あとは、激しい雨が降っていたこと。
雷鳴の音。
驚いたことに妖刀、
あの日。
自分はどうやら妖刀に魅入られてしまったようだ。目覚めた時、雨水に映った自分の姿を鬼灯の視界を通して見た。灰色の髪の毛と赤い瞳。
もはやこの身はひとではないのだろう。なら、今の状況も頷ける。自分が追われているその罪状に関しては、本当に思い出せないのだが。
頭の中で鬼灯と名乗る存在が、訊いてもいないことを、ぺらぺらと喧しく喋り続けている。そのくせ、大事なことはなにひとつ話さないのだ。
「教えてくれないか? 俺は、一体何をしたんだ? 本当に道場の皆を、父上を、兄上を殺したのか? それともお前がなにかしたのか?」
その声はどこまでも冷静で、契約を交わした時とはなんだか雰囲気が違っていた。あの場から逃げた後、紫紋が目覚めた時から感じる違和感に関して、鬼灯は特に興味はなかった。
稀であれ"ひと"であるその精神が、起こった事に対して耐えられなかったのだろう。あの日の記憶だけがないのも、都合よく忘れているのも、その影響と言えば頷ける。
鬼灯は迷いなく「そうだ」、と紫紋の頭の中できっぱりと言い切る。
忘れているなら好都合だろう。何が起こったか、は、もはや意味をなさない。結果は変わらないし、この状況も変わらないのだから。
『俺がなにかしたんじゃなく、なにかしたお前の代わりに逃げてやったんだ。憶えてないなら、罪もクソもないだろう』
人相書きには、大罪人、三上紫紋とあった。親殺し、兄殺しに加えて、三十人余りの罪なき者を殺した殺人犯。もはやお尋ね者となった紫紋に、行く場所などなかった。
嘆き悲しんでも過去は変えられないし、失ったものは二度と戻らない。
あれから五年経った。
その間も人相書きは何度も書き直されたが、人々の間ではもう過去の惨劇となっていた。
三上紫紋はすでに自害してこの世にいない、悪鬼になって死んだ後も人々を殺して回っている、時折夜が明けると転がっている悲惨な姿の骸は、きっと奴の仕業だろう、など、やってもいない罪が付け足される始末。
しかし、どんな噂が流れようが、罪が増えようが、どうでもいい。
父や兄の意志を受け継ぎ、三上家の人間としての役目を果たしていた。陽が明るい内は身を隠し、夜になれば江戸を彷徨い歩く。ひとに害なす妖者を妖刀で祓い、闇と戦う日々。
妖刀を使う時、鬼灯が表に出てくる。どうやらその時だけこの瞳は赤く染まるようだ。今はこの力が無いと、妖者たちと戦えないことがわかった。
何も食べずとも、飲まずとも、眠らずとも生きていられる今の身は、正直便利だとさえ思う。ただ、精神的にはかなり疲れ果てていた。
だが、いつまで続ければいい?
一生身を隠して、妖者と戦い続けるのか?
それは誰のために?
名も知らない他人のために?
本当に守りたかったひとたちは、もうこの世にはいないのに。
『じゃあいっそ俺に全部くれ』
「ひとの心の声を勝手に聞かないでもらえるかな? あの日から、俺はお前を利用すると決めたんだ。だが、いつまでもこんな生活はしていられない」
『いいねぇ。じゃあとっておきの所に連れてってやるよ』
怪訝そうに紫紋は眉を顰める。
「どこに連れて行ってくれるんだい?」
もうどうにでもなれ、と紫紋は訊ねる。
『
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます