二十六、現世から幽世へ



 紫紋の身体を黒い靄が包み込む。強く濃いその"穢れ"が妖刀から溢れ、意識が飛んだ。その瞳が赤く染まり、表情は自信に満ちていて、嫌味ったらしい笑みが浮かぶ。しかし黒髪は紫苑のように白髪ではなく灰色に染まり、その身体が"穢れ"に呑まれていた。


「こりゃすごいな。はは。褒めてやってるんだ。お前みたいな特異で"稀な"存在、あいつ以外に遭ったことがない!」


 確かに、この身体に在る、もうひとつの魂。元の持ち主の魂。今は眠っているが、慣れれば共存もあり得るだろう、かなり特異な存在だ。


 あいつ、三上の初代当主と同等、もしくはそれ以上の逸材。


「普通はそこの狂った兄さんみたいに、""に堕ちたら元の魂は喰われてなくなる。故に、支配される。なのに、お前ときたら、どういうことだ?」


 襲いかかって来る""に堕ちた者の攻撃を軽く躱しながら、思った以上のこの新しい身体の使いやすさに感心する。


「妖刀兄さん、あんたは本当にイカれてやがる。よっぽど屈辱だったんだろうな。この俺に封じられていたのが」


 だが、もう厭きた。

 ずっと望んでいた器を手に入れたのだから、こんな気色悪い妖刀の世話は御免だ。


「じゃあ、ここで因縁を断ち切らせてもらうぜ。悪く思うなよ、」


 刀身を下げ、くるりと円を描くように身体を捻らせた。途端、無数の氷の氷柱つららが妖刀に襲いかかる。そのすべてを避けることは叶わず、その両腕が妖刀ごと一瞬にして宙へと放り出される。


 腕という盾を失ったせいで、無数の細い飛針のような氷柱つららが、容赦なく身体中を貫いた。顔を喉を胸を腹を足を、すべてを貫き、支えを失うようにそのまま後ろへ倒れていく。


 血の代わりに黒い靄が溢れ出し、宿主を覆っていく。これが、穢れに蝕まれた者の最期であることを、鬼灯は知っていた。


氷技ひょうぎ鳳仙冰花ほうせんひょうか。一瞬で逝かせてやったんだ、感謝しろ」


 両腕と共に転がっている妖刀を視界の端に捉え、ゆっくりと歩を進める。あれはもうとっくに手遅れだったのだ。

 ほら、もう"ひと"の形を保っていない。足元に転がる妖刀「童子切安綱どうじきりやすつな」を拾い上げ、その刀身を眺め、馬鹿にするように笑みを浮かべた。


「ひ、人殺し!!」


 背後で怯えたような中年の男の声が上がった。ここに生き残りはいないだろうから、様子がおかしいことに気付いた屋敷の周辺の住民だろう。

 確かにこの場面だけ見れば、"人殺し"に間違いない。


(やれやれ······せっかく器を手に入れたのに、面倒なことになった)


 とえあえず、妖刀を左右の手に持ったまま、鬼灯は一瞬でその場から消え失せた。


 その数日後、江戸中に人相書きと罪状が書かれた紙がバラまかれる。噂はどんどん広まり、やがて怒りと恐怖の矛先は、大罪人となった三上紫紋へと向けられるようになった――――。



******




 夜の裏路地をふらふらと歩きながら、紫紋はとうとう地面に倒れ込む。あの日、目の前で起こった事。鬼灯が入れ替わった後、元に戻ったのは良かったが、そのすべてを紫紋は忘れてしまっていた。


 最後の記憶は、道場で皆と稽古をしていたところまで。

 あの日は、珍しく兄がいなかった気がする。

 あとは、激しい雨が降っていたこと。

 雷鳴の音。 


 驚いたことに妖刀、童子切安綱どうじきりやすつなを封印していたはずの冰紅蓮ひょうぐれんを、自分の意思で好きに取り出せるようになっていた。


 あの日。


 自分はどうやら妖刀に魅入られてしまったようだ。目覚めた時、雨水に映った自分の姿を鬼灯の視界を通して見た。灰色の髪の毛と赤い瞳。


 もはやこの身はひとではないのだろう。なら、今の状況も頷ける。自分が追われているその罪状に関しては、本当に思い出せないのだが。


 頭の中で鬼灯と名乗る存在が、訊いてもいないことを、ぺらぺらと喧しく喋り続けている。そのくせ、大事なことはなにひとつ話さないのだ。


「教えてくれないか? 俺は、一体何をしたんだ? 本当に道場の皆を、父上を、兄上を殺したのか? それともお前がなにかしたのか?」


 その声はどこまでも冷静で、契約を交わした時とはなんだか雰囲気が違っていた。あの場から逃げた後、紫紋が目覚めた時から感じる違和感に関して、鬼灯は特に興味はなかった。


 稀であれ"ひと"であるその精神が、起こった事に対して耐えられなかったのだろう。あの日の記憶だけがないのも、都合よく忘れているのも、その影響と言えば頷ける。


 鬼灯は迷いなく「そうだ」、と紫紋の頭の中できっぱりと言い切る。


 忘れているなら好都合だろう。何が起こったか、は、もはや意味をなさない。結果は変わらないし、この状況も変わらないのだから。


『俺がなにかしたんじゃなく、なにかしたお前の代わりに逃げてやったんだ。憶えてないなら、罪もクソもないだろう』


 人相書きには、大罪人、三上紫紋とあった。親殺し、兄殺しに加えて、三十人余りの罪なき者を殺した殺人犯。もはやお尋ね者となった紫紋に、行く場所などなかった。


 嘆き悲しんでも過去は変えられないし、失ったものは二度と戻らない。



 あれから五年経った。

 その間も人相書きは何度も書き直されたが、人々の間ではもう過去の惨劇となっていた。


 三上紫紋はすでに自害してこの世にいない、悪鬼になって死んだ後も人々を殺して回っている、時折夜が明けると転がっている悲惨な姿の骸は、きっと奴の仕業だろう、など、やってもいない罪が付け足される始末。


 しかし、どんな噂が流れようが、罪が増えようが、どうでもいい。


 父や兄の意志を受け継ぎ、三上家の人間としての役目を果たしていた。陽が明るい内は身を隠し、夜になれば江戸を彷徨い歩く。ひとに害なす妖者を妖刀で祓い、闇と戦う日々。


 妖刀を使う時、鬼灯が表に出てくる。どうやらその時だけこの瞳は赤く染まるようだ。今はこの力が無いと、妖者たちと戦えないことがわかった。


 何も食べずとも、飲まずとも、眠らずとも生きていられる今の身は、正直便利だとさえ思う。ただ、精神的にはかなり疲れ果てていた。


 だが、いつまで続ければいい?

 一生身を隠して、妖者と戦い続けるのか?

 それは誰のために?

 名も知らない他人のために?


 本当に守りたかったひとたちは、もうこの世にはいないのに。


『じゃあいっそ俺に全部くれ』


「ひとの心の声を勝手に聞かないでもらえるかな? あの日から、俺はお前を利用すると決めたんだ。だが、いつまでもこんな生活はしていられない」


『いいねぇ。じゃあとっておきの所に連れてってやるよ』


 怪訝そうに紫紋は眉を顰める。

 

「どこに連れて行ってくれるんだい?」


 もうどうにでもなれ、と紫紋は訊ねる。


幽世かくりよさ』



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る