二十五、もう、なにも要らない



 紫紋は口を塞いで、嗚咽を堪えながら進む。少しでも気を抜いたら、息ができなくなりそうだった。涙が止まらない。

 これをまさかあの紫苑がやっただなんて。信じたくない。ない、けれど。見てしまった。


 腰までの長さの白髪の青年が、土砂降りの雨の中、庭に立っていた。当然、本来の兄は白髪ではない。しかしその横顔は確かに彼のもので、赤い眼は狂気に満ちていた。

 父の言った通りだった。白髪に赤い眼。やはり兄は、紫苑は、""に堕ちたのだ。


 ゆらりとその視線が向けられた先、逃げ遅れたのだろう中年の使用人の女が、紫苑を指差して思わず口にした言葉。


「ひぃっ!? ば、化け物······っ」


 にやり。


 その口元が歪んで笑みを浮かべたのを、紫紋は見逃さなかった。その瞬間、瞬きひとつの速さで女のすぐ目の前まで移動した紫苑は、手に握られた黒い靄で覆われた妖刀で、目の前で泣き叫ぶ女の胸を突き刺す。何度も、何度も。動かなくなった後も。


 紫苑の頬が、白い上衣が、鮮血に染まっていく。雨でも洗い流せないほどに。

 まるでその血を啜るかのように妖刀が命を奪っていき、その度に黒い靄が禍々しさを増していった。


 庭に咲く白い花に飛び散った、血痕。

 赤、赤、赤、赤。

 紫紋はもう、何も考えたくなかった。


「紫紋、お前は本当にすごい子だね。もうこの道場にお前に勝てる者なんていないんじゃない? その天賦の才は、お前だけに齎された尊いものだ。大事にするんだよ、」


 兄はいつも褒めてくれた。


「手を抜くなんて、駄目だよ。それは相手に失礼な行為。馬鹿にされてるのと同じだよ。いいかい、紫紋。強くなることは悪いことじゃない。つまらないなんて言わないで、もっと上を目指せばいい」


 駄目なことは駄目と言って、叱ってくれた。


「お前と一緒に妖者退治ができるようになって、心強いよ。私は、あんまり争い事は得意じゃないから。悪鬼を殺すことさえ躊躇ってしまうことがある。奴らは口が上手いから、余計に厄介なんだ」


 この江戸の町をふたり、時に父と共に三人で駆けまわっていた。夜の闇に潜む者たち。人を喰らう悪鬼や、惑わす妖。怨みによって生まれた悪霊。名前も知らない相手のために命を懸けるなんて、馬鹿らしいと紫紋は言ったことがある。


「そうだね。でも、私たちはそうすることで私たちを証明できるんだよ。この力は、特別で、誰かの役に立っている。誰かに称賛されることなどないけれど。それって、なんだか格好良くないかい?」


 兄の言葉が、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。

 赦さない。

 そんな兄を穢したモノを。


 蔵の扉は開いていた。駆け上がる。二階へ。もう一本の妖刀の許へ。


 その妖刀には鞘がなく、黒鉄の刀身がむき出しになっていた。触れずとも解るその禍々しさは、紫紋に少なからず手に取るのを躊躇わせた。


 先程見た、兄が持っていた妖刀と同じ、黒い靄が渦巻いて見える。これは"穢れ"だ。長くそれに触れれば、自分も同じ末路を辿るのではないか?そう思えてならない。


「だけど! 俺は····っ」


 手を伸ばす。その精巧な柄を握り締める。そしてその妖刀を自分の前に翳した。黒い刀身は何も映さず、まるで深淵の如き闇を湛えていた。


「兄上を止める! 今ならまだ、間に合う!」


 根拠はない。

 でも、信じるしかなかった。


『なら、契約をしようぜ』


 頭の中で響いた声。若い男の声。どこか含みのある嫌味ったらしいその声に、紫紋は警戒するように辺りを見回す。それが妖刀の声だと気付くのに時間はかからなかった。契約?そんなもの、誰がするか。紫紋は首を振った。


『馬鹿か? じゃあ俺の力は使えないし、これも妖刀どころかただのなまくら・・・・のままだ。そんなんで、あれを止めるだって? どんだけ甘ちゃんなんだよ、』


「俺を惑わすつもりか? 俺はお前になんて騙されないからなっ」


 怒鳴りながら階段を駆け下りる。とにかく、この妖刀を父の許へ届ければなんとかなるはずだ。再び妖刀の封印をするだけなら、契約する必要なんてない。この妖刀は封印具として使われていたが、妖刀は妖刀でしかない。


『まあまだ時間はあるから、よく考えるんだな。あの妖刀は相当イカれてやがるから、憑かれた人間ももはやひとには戻れないだろうよ。宿主を殺してやるのが親切ってやつだな』


「黙れ! そんなわけがないだろう! 妖刀さえ封印すれば、兄上は······っ」


 本当に?

 本当にそれで解決するのか?

 だって、妖刀に取り憑かれていた、なんて。誰が信じるんだ?


 傍から見たらただの殺人者じゃないか。無抵抗な者まであんな無残な姿にされて。その親や子は兄を恨むだろう。どうしてこんなことを、と嘆くだろう。最終的には法で裁かれ、死罪になる。


『お前の大切な兄上が、妖刀の封印を解く前にここでなんて言っていたか、教えてやろうか?』


「うるさい、黙れ!」


 バシャバシャと足元で泥水が撥ねた。雨音は一層強くなった。走る。不安になった。雨音と雷以外、他の音が消えていた。悲鳴さえ聞こえない。

 走る。走る。もうすぐだ。もうすぐ、さっき抜けてきた裏口に辿り着く。父は強いから、絶対に大丈夫。門派の皆もいる。


『あいつが悪い。あいつが、全部、なにもかも悪い。そう言ってたぜ?思い当たることはないか? なあ、どうだ?』


 あいつ。あいつって、誰だよ。

 紫紋は嫌な予感がした。何の音もない。足音さえない。静寂。その意味を。


「そ、んな······嘘、だ········なんで!」


 目の前に広がったその光景に、眼を見開き、すべてを否定する。こんなの、嘘だ。なにかの間違いだと言って欲しい。目の前に広がったその赤ばかりのセカイの上に、ただひとり佇む者がいた。ゆらりとこちらを振り向いたその双眸は、深く濃い血のような色の瞳。


 口許がにやりと嫌な笑みを浮かべた。紫紋は動揺しながらも、妖刀を落とすことはなかった。次に込み上げてきたのは"怒り"。ただ、ただ、憎い。兄をこんな風にした妖刀が憎い。父を殺した。皆を殺した。道場の壁を床を障子戸を染める赤。黒に近い赤、鮮明な赤。赤ばかり。


「なんで!!」


 身体が勝手に動いていた。気付けば刀身同士が火花を散らすようにぶつかり合う。何度も、何度も、ぶつかり合っては、妖刀とは思えないような美しい音を響かせて。


「返せ! 兄上を返せ! 父上を返せ! 皆を!!」


 ただ激しい感情だけが胸の中を支配していた。


 兄の姿をしたそれ・・は、口の端を上げてずっと笑っている。それが恐ろしいとは思わず、渾身の力を込めて横に一線を放つ。だが、妖刀はそれを軽々と受け止め薙ぎ払うと、くるりと一回転をして床に降り立つ。


 ぴしゃん、と血だまりが音を立てた。


『ほらみたことか。完全に奴に遊ばれている。いい加減、理解しろよ。いくらお前が三上の人間でも、そいつには分が悪すぎる。俺は親切心で言ってやってるのに』


「······しろ、」


 ぽつり、と零れた言葉。

 もう、どうでもいい。

 もう、なにも要らない。

 けれど、目の前のモノは壊す。

 絶対に、赦さない!


「俺と契約しろ! 妖刀、冰紅蓮ひょうぐれん!」


 全部、終わらせる!


『いいねぇ。契約、承知した。俺の名は鬼灯ほおずき。お前を宿主にしてやる』


 その声は、まるでこの事態を喜んでいるかのように、どこまでも楽しそうだった。



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