二十四、血の雨に濡れる
あの日は、いつものように道場で稽古をしていた。本当に何の変哲もない、いつもの一日を終えるはずだったのに。それなのに。どうして。
どうして、あんなことが起こってしまったのか――――。
突如、上がった悲鳴。それは誰のものとは判別できない、慟哭のような悲鳴だった。怯えるような震えるような、声。戦慄。それは次々と起きた。
始めは屋敷の方からだった。それはどんどん近づいて来て、道場にいた者たち、紫紋も含めた二十人ほどの門下生は、状況がまったく呑み込めていなかった。
「紫紋、皆、無事か!?」
そんな中、響いた声。
父の声だった。
門派の者たちは皆、先程まで顔を合わせて、どうしたらいいかわからないという顔をしていた。
紫陽が現れた時、そんな皆の顔に安堵の表情が浮かぶのがわかった。紫紋もまた、張りつめていた糸が切れるのを感じた。父の元へと駆けて行き、自分の安否を知らせる。
「父上、ここにいます!」
紫紋は十七歳になったばかりだったが、背も伸び、それなりに剣の腕に自信もあった。しかし、下手に動いて皆を危険に晒すこともできず、どうしたらいいかと迷っていたのだった。
「賊が入り込んだのですか?」
「違う····だがそれよりも、ずっと厄介な事態だ」
梅雨の頃。
外は強く激しい雨が、朝からずっと降り続いていた。まだ昼であるはずの空は薄暗く、曇り空を裂くような稲光が唯一の光だった。
「妖刀の封印が解かれた。あの妖刀は、今、紫苑の手の中に在る」
両肩を掴まれ、まっすぐに見つめてくる父の言葉に、嘘偽りがあるはずがない。しかし、紫紋はまったく信じることができなかった。
三上家の秘密。
あの蔵に隠されている、モノ。
妖刀「
屋敷の方から次々に上がる悲鳴が、紫紋を現実に呼び戻す。
「いいかい、紫紋。あれを封じていたもう一本の妖刀があれば、まだなんとかなるかもしれない。私はここで皆を守りながら紫苑を抑える。お前ひとりなら、見つからずに蔵まで走れるだろう」
「しかし······どうして兄上が、」
父は首を振る。理由など、誰にもわからない。ただひとつ言えること。
「妖刀に魅入られたら、どんなに強い志をもってしても抗えない。紫苑は、もはや手に負えない"
「"
肩に置かれていた指に力が入る。紫紋は動揺していた。冷静になんてなれるはずがなかった。あの兄が妖刀に操られるなんて。よりにもよって"
あの日、父が自分に話したこと。三上家のこと。古くは平安の時代から続く一族で、かつては
その頃から、夜の闇に巣食う妖や悪鬼、亡霊の類を祓っていて、国の政をする者が代わる度に、隠密の如く権力者の影に控えていた。
国の要となる者を"穢れ"から守り、恐ろしい夜の闇から民を守り続けてきたのだ。
そして、あの松平家で起こった元凶であるその妖刀を、異なる妖刀で封印することに成功する。
もう一振りの妖刀の名を、「
紫紋は十二歳のあの冬の夜にその話を父から聞き、十五歳になった時に、初めてその妖刀を目の当たりにする。あれは、禍々しくも美しい
「あの妖刀があれば、まだ兄上を止められるってことですか?」
「····ああ。だが、あくまで可能性の話をしている。本来の
長い年月を経て、一族のその力は衰えていった。かつては鬼と契約を交わしその身に宿すことで、人ならざる者たちと戦ってきた。しかし今となっては、術符や刀を使用し、元々霊力の高い三上家の血に頼ることでなんとか戦えている。
「その能力のあるお前だけが、あの妖刀と対等に契約ができるはずだ」
「······あの妖刀には、鬼が宿ってるんですか?」
「あれは、八寒地獄の溶けることのない氷壁から作られたという、いわく付きの妖刀だ。三上家の初代当主が、
遥か昔から受け継がれてきたその妖刀だが、それに宿る鬼と契約できた者は、初代当主以来、現れていない。目の前にいる自分の息子にその可能性があることを、紫陽は誇りに思うと同時に、すべてを背負わせてしまうことが心苦しかった。
「行け、紫紋。そこの裏口から抜ければ近い。残った者は私がなんとしても守る」
言って、紫陽は腰に佩いた刀を抜いた。
紫紋は拳を握り締め、頷く。他の者たちはそんなふたりの会話など聞いておらず、恐怖で震える者、木刀を手に構える者、幼い子供たちを宥める者、いずれも内心は自分たちの事で精一杯であった。
妖刀が保管されている蔵に行くためには、庭を通って屋敷を抜けないといけない。見つかれば、悲鳴を上げている者たちの二の舞となるだろう。
また遠くで悲鳴が上がった。女の悲鳴だった。使用人の誰かだろうか。
紫紋はひとり裏口から外に出て、危険な庭の方へ足を向けるのだった。
――――ずっと考えていた。
今日まで、兄になにか変わったことがなかっただろうか。その変化を見逃してはいなかったか?
混乱する頭で、かけられた言葉のひとつひとつを思い起こしていた。
しかしそのどれを頭の中で繰り返そうと、何もわからなかった。
しん、と静まっている庭を壁をつたいながら進んで行く。そして思い知る。あの何度も上がっていた悲鳴の真実を。
(こんな、······な、んでっ)
縁側に身体半分ずり落ちるように転がっている、死体。身体中が
他にも数人の死体があった。腕がない者、首がない者、何度も執拗に切り刻まれた者。よく知る者たちが何人も。雨に打たれて身体中の血が流れてしまっているかのように、顔面が真っ白になっていた。
曇り空を引き裂くように稲光がはしり、遅れて雷が鳴った。
その耳を劈くようなその雷鳴は、まるでこの世の終わりを告げているようだった――――。
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