二十三、鬼の灯



 ――――あの日、すべてが血で染まった。


 天下五剣のひとつ。平安の時代に源頼光みなもとのよりみつという武将が人々を苦しめていた鬼、酒呑童子しゅてんどうじを討ち取った刀。それ以来、その刀は「童子切安綱どうじきりやすつな」と呼ばれるようになった。


 時の将軍からこの刀を与えられた、越前松平家の松平忠直まつだいらただなおが、その刀を手に取ったことで、不運が始まった。


 彼が正気を失い乱心、狂気に満ちた赤い瞳で刀を振り回したことにより、その場にいた者たちが身の危険を覚え、震えあがったという。

 その後、刀に取り憑いた酒吞童子の怨念が、災いを招いたのではないかとも噂された。


 ほどなくして妖刀は"ある一族"によって封印される。そして問題を起こした松平家は、お取り潰しとなったらしい。


 それから数十年の間、その封印が解かれることはなかった――――。




 江戸。武家屋敷が建ち並ぶ一角に、三上家はあった。三上家は道場も立ち上げており、他の家の武士たちや町人でも、武芸を習いたいという意思があれば受け入れていたため、年齢問わず多くの者が出入りし、道場はいつも賑わっていた。


「紫紋、今日はこのくらいにしておこう。身体を洗って、夕餉にしようか」


 紫紋、と呼ばれた十二歳の少年は、目の前の者に笑顔で頷いた。彼は、少年の三つ上の兄であった。いずれは三上家を背負う長男、名を紫苑しおんといった。


 三上家は昔から名に「紫」という字が当てられ、このあたりでなくともかなり珍しい名であった。


「でも兄上、父上がまだ戻って来ていないけど、」


「ああ、今日は大事な用があり遅くなるそうだ。朝ここを出る時にそう言っていたから、気にしなくてもいい」


 井戸から水を汲み上げ、桶に流し込む。白い上衣を脱ぎ、手ぬぐいで身体を拭きながら、そういうことなら、と紫紋は納得する。


 父は将軍付の護衛で、信頼も厚く、しかし表立ってその職を公表していない。所謂、隠密のような存在で、家族と一部の者以外はそれを知らないのだ。その為、他の武家の者たちには中級の武士の家ということで、三上家は通っていた。


 紫紋は顔を拭きながら、庭の敷地内にある、立派な白い壁の蔵に視線を向ける。この時代の武士ならば、頭を剃り月代さかやきをして頭の天辺に髷を作るのが普通というか常識だが、三上家はそれをする必要がなかった。


 現にふたりとも腰くらいまで髪の毛はあったが、頭の天辺で一本にして括っているだけである。それが許されているのも色々と理由があったが、月代さかやきもせず髷を結っていないからと言って、三上家を罵る者は誰ひとりとしていなかった。


 使用人たちによって夕餉の膳が並べられ、ふたりはそれをいつものように食す。

 黙っていても食事も掃除も屋敷の使用人たちが行うので、自分たちのすることといえば勉学や武芸に励むことくらいだった。


 ふたりの母親は身体が弱く、ふたりが幼い頃に亡くなった。それ以来、お互い支え合いながら父の教えを守り、生きてきた。


 母親似の美しい顔立ちの紫紋と、父親似の凛々しい顔立ちの紫苑。その武芸の腕前もさることながら、勉学にも秀で、性格は穏やか。その上容姿も優れていたので、この兄弟の右に出る者はいなかったという。


「そういえば、兄上。昨日の夜、父上と蔵の前で何を話していたの?」


 膳を片付けながら、紫紋はふと昨日の夜ことを思い出していた。


「悪い子だ。あんな時間に起きていたのかい?」


「たまたま目が覚めたんだ。そうしたら、庭先で声がして。何を話していたのかまでは聞き取れなかったら、気になって」


 ただ、真剣な表情をしているのはわかった。それからふたり、蔵の方へ向かって行くのが見えたのだ。あの蔵には近付いてはいけないと、幼い頃から言い聞かされて育った紫紋は、首を傾げるばかりだった。


「ねえ、兄上。蔵にはなにがあった? 宝物? ねえ、教えてよ」


 興味津々に見上げてくる弟に、紫苑は困った顔で首を振った。


「お前も私と同じ歳になったら、父上から直々に教えてもらえるよ。三上家の本当の役目を。今教えてあげられるのは、これくらいなんだ。ごめんな、」


「兄上と同じ十五歳になるまで待てってこと? あと三年も待たなきゃならないなんて、もどかしいよ」


 はあ、と嘆息して紫紋は肩を落とす。

 これ以上はどんなに頼んでも教えてくれなさそうだと、諦める。


「いいかい、紫紋。お前は私なんかよりもずっと武芸に秀でているし、頭も良い。次男でなければ、この役割はお前の方が相応しいのかもしれない。でも、そんな重荷、できることならば背負わせたくはない。私も父上も、そう、考えている。それにお前は、今のまま、好きなように生きるのが性に合っているだろう?」


 兄の言うその"重荷"の意味を、この時紫紋は長男として家を守っていくためのしがらみ・・・・かなにかとしか思っておらず、確かにそうだな、と頷いた。


 武芸も勉学も好きだったが、なによりも遊び回っている方が楽しいと思うような子供であった紫紋にとって、兄のその言葉は妙に説得力があった。



******



 ある冬の夜、紫紋は寝付けずに目を開けたまま、右へ左へと何度も寝返りをうっては暗い部屋の中を見回していた。そしてとうとう身体を起こすと、外の空気でも吸おうと障子戸に手をかけた。


(なんだろう······なにか、変だ)


 屋敷の空気がなんだか重く感じる。

 外は雪が降り始めたようで、薄っすらと地面が白く染まっていた。


 ぼんやりとと空に浮かぶ半分の月の明かりだけが、薄暗い庭先を照らしているように思えた。


 縁側を歩いて行き、紫紋は足を止める。普段なら、冬の夜に裸足で歩くのは馬鹿だと思ったが、そんな余裕はなかった。


 庭へと降りる。足の裏に感じた冷たさを無視して、あの蔵の方へと駆けた。


「······なんだ、あれは?」


 蔵の重い扉の上の方、二階の窓を横切った青白い灯火。誰か中にいるのだろうか?

 しかし扉には鉄の南京錠が掛けられていたので、すぐに違うと気付く。


「そこでなにをしている、」


 低く重たい声が背中の辺りに響いた。紫紋ははっとなって振り返る。父、紫陽しようがいつの間にかそこに立っていた。


 気配もなく、声がするまでまったく気付かなかったことに、己の未熟さを思い知ったが、今はそれを恥じている場合ではなかった。


 またあの青白い光がゆらゆらと浮遊しているのが見えた。


「父上、あれは何ですか? もしかして、誰かが蔵に閉じ込められていて、助けを求めているのでは?」


「あれは、鬼火だ」


 父は眼を細め、眉を顰めてそう答えた。その表情を読み取るなり、紫紋はそれが"良くない事"であることを、思い知る。


 不安げに見上げてくる紫紋の頭に大きな手を乗せて、紫陽しようは首を振った。


「あれが見えたなら、お前も三上家の血を引くという証だ。少し早いが、お前にも教えてやろう。私たちがどういう一族か、」


 この時、何も知らなかったら、何も見なかったら、何も聞かなかったら。

 あの日の惨劇は起きなかったのかもしれない。


 起こった事に対して、なにかをしようとさえ思わなかっただろう。


 これもまた、運命の悪戯か。


 この五年後、三上家を襲った悲劇。折り重なる死に絶えた者たちは、皆、鮮血で染まっていた。

 あれは到底、ひとの仕業ではない。その光景を目の当たりにした者たちは口々に囁く。



 あれはまるで――――。

 そこに悪鬼羅刹でも舞い降りた後かのような、それは無残な光景だった、と。



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