四十四、記憶なんていらない



 識たちの行動を視界の隅に入れながら、紫紋と鬼灯は再び妖刀を構える。禍津日神まがつひのかみは、それに対して特に悔しがるわけでも焦るわけでもなく、まったくそこから動く気配はなかった。


「弥勒殿、面白いことを教えてあげましょうか?」


 代わりに、またその口を開き始める。ひょっとこ面はずっと同じ表情を浮かべ、薄暗闇の中で、より気味が悪い印象を与える。


「また適当なことを言うつもりだろう? 聞く必要なんてないぜ、」


「そうですか? 弥勒殿にとって、きっと興味深い内容だと思うのですがね。そう、例えば、"失った記憶"に関すること、とか」


 もったいぶるように言って、梓朗の方にその顔を向けた。顔色は変わらないが、内心動揺しているのがおそらくバレていたのだろう。禍津日神まがつひのかみは満足そうに仮面の奥で、ガラガラと笑い声を立てた。


「そうですよね、興味がないわけがないですよ。誰しも、神ですら、自分自身のことを、本当の意味で理解している者なんていないのです。記憶がないだなんて、ますます不安でしょうに。弥勒殿、お互いにこれが最後の邂逅となるのなら、その真実を知りたいとは思いませんか?」


「俺の記憶とお前が今までしてきたことが、何か関係があるとでも言いたいのか?」


 その問いに、禍津日神まがつひのかみはうんともすんとも言わなかった。代わりに、にやりと口元を大きく歪めた気配が伝わって来て、梓朗は訊ねたことを後悔する。


 これでは奴の思う壺だ。だが同時に、自分の記憶が抜け落ちている事ですら、この厄災の神の仕業なのだとしたら、本当にタチ・・が悪い。


『あまり長引かせない方が良い、おそらく、禍津日神まがつひのかみの狙いは、"逢魔が時"。穢れが一番濃くなる時を待ってるんだ』


 紫紋は、鬼灯にその時間が迫っていることを警告する。無駄に話を延ばし、長引かせている理由はただひとつ。自分が圧倒的に有利な時間帯へ持ち込むこと。そういうことか、と鬼灯は舌打ちをする。


「······もういい黙れ、くそじじい」


 話を遮るように、梓朗と禍津日神まがつひのかみの間に妖刀を翳し、いつもの表情に戻った鬼灯が割って入る。これ以上、この神の戯言に付き合っていては、時間の無駄と言っていい。紫紋の考えが正しければ、つまりは、そういうことだ。


「あんたの狙いは"逢魔が時"だろう? さっき紫紋に言われなかったら、気付かなかったぜ」


「····しかもここは黄泉平坂に通ずる道。それもすべて計算済みという事か」


 感覚から言って、逢魔が時まであと四半刻しはんとき(約三十分ほど)あるかどうか。


「おや、宿主はお主と違って賢いようですね。その通り、この香炉が強まる逢魔が時まで、あと少し。このまま、ここにいる者たちを黄泉へと誘うのも一興ですね」


 本来の目的は、鷹羽家の者を黄泉に連れて行き、その魂を回収すること。香炉が本来の姿を取り戻すための、最後の仕上げ。


「おしゃべりはここまで。では、この儂と戯れていただこう」


 禍津日神まがつひのかみはひょっとこ面に手をかけ、その素顔を覗かせる。途端、小さくて背中の曲がった老人のような姿から、みるみる黒い影が溢れ出し、その身を螺旋の如く包み込んだ。


 ぼこぼこと皮膚が大きく波打ち、形自体が変わっていく。その姿を目にした時、その場にいた者たちは皆、驚愕した。


「······これが、禍津日神まがつひのかみの真の姿?」


 それは、ひとつの個体から分裂し、ふたつの柱の如く生まれ落ちた。黒い衣を纏いし災厄。ゆらりとふたつの影が揺らぐ。禍々しいその気配に、梓朗も鬼灯も指先が痺れる感覚を覚える。


「我々禍津日神まがつひのかみは、八十禍津日神やそまがつひのかみ大禍津日神おおまがつひのかみの二柱。黄泉の穢れから生まれし、まさに黄泉の垢。我らが齎すは、わざわい。この幽世かくりよさえ覆うほどの、無限の穢れ。管理者よ、これをどう治める?」


 ひとの形をとっているが、それは明らかにひとならざる者。禍々しく、荒々しく、背筋がぞくりとするような冷ややかな気配。黒い衣を頭からすっぽりと被っているせいで顔は見えず、口元だけがはっきりとわかった。


「相手が神であろうと、幽世かくりよにおいての"絶対"はこの俺だ。わざわいしか齎さない不遜ふそんな神には、さっさと退場してもらおう」


 言って、梓朗は口の端をにっと吊り上げて笑う。

 これ以上、好き勝手にはさせない。


「すべての因果を断ち切る」


 梓朗の右眼に刻まれた文字が、くっきりと浮かび上がる。袖からあの注連縄しめなわを取り出し、そのまま無造作に宙に放った。


 その瞬間、眩い白い光が辺りを覆う。


「弥勒の名において、この地にわざわいを齎すの者を隔離する。我、古の扉の鍵を持つ者なり――――」


 禍津日神まがつひのかみたちの周りを、大きく広がって輪を成した注連縄しめなわが、囲うようにぐるぐると回り出す。


永久とこしえに闇の中を彷徨うがいい。この先百年は陽の当たる場所は拝めないと思え、禍津日神まがつひのかみ。開け、無の扉」


 それは、注連縄しめなわに囚われた二柱の禍津日神まがつひのかみの真下に現れた。開いた扉の向こう側から、鎖のようなものが勢いよく伸びて来て、さらに逃げられないように捕縛する。


「これで終わりだと思わない事です。我々はすぐに戻ってきますよ。わざわいがそこに存在する限り、消えることはないのです」


 にたりとその口が開かれる。それはまるで呪いのように、梓朗の耳にしつこく残る。この無の扉はあくまで""を無に帰すためのモノ。神をどうにかできるものではない。


 それでも。


「喧しい。その時は、今度こそ黄泉の淵に追い返してやる」


「ははは! 己の愚かな過ちを後悔するといい! 永遠にその記憶は戻らない! 願いは叶わない! あははははははっ!」


「知るか。もはやそんなことはどうでもいい。俺は俺だ。他の誰でもない」


 梓朗が最後の印を結んだその瞬間、鎖は勢いそのままに、扉の奥へ獲物を引きずり込んでいった。


 禍津日神まがつひのかみは、扉が閉まるその瞬間まで、高らかに笑い声を上げ続ける。それはあのしゃがれた老人の声ではなく、低い声と高い声が二重に重なった、不気味な男の声だった。


 そして、大きな音を立てて閉じられたその扉は、まるで何事もなかったかのように、地面からすぅっと消え失せてしまうのだった。



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