二十九、飢えた犬は棒を恐れず
平良は万事屋や仲良くなった職人の店、座敷童子たちのいる夜香蘭、
その先は、店や長屋などの建物はほとんどなく、あるとすれば
故に、他の妖や霊は用もないのに近づくことはないのだ。
そんな所に氷室がある理由。それは、供物が届いた時にすぐに保管できるようにするためで、その届く場所とは、天界へ続く扉の大きな祭壇の前なのだ。当然、それを運ぶことを仕事とする者がおり、近くに建てた山小屋のような家に常駐している。
「氷室になにか異変はなかったか?」
梓朗と平良は、すぐに氷室には向かわず、届いた供物を管理している者の所へ向かった。中に入るにしても、一応許可は取っておく必要があったからだ。そんなことはオコジョたちもわかっていただろうに、必要な説明は省いて依頼してきたのだ。
「私が最後に入ったのは、一週間ほど前です。供物はだいたい月に一度か二度、一定の間隔で祭壇の前に現れるので、」
山小屋の中は意外と広く、天井も高い。それはたぶん、必要最低限の物だけが置かれていることと、その管理者の身体がとても大きいからだろう。
見るからに力持ちそうなその管理者が、
(山くらいの大きいひとを想像してたけど、見た感じは三メートルちょっとくらい? それとも、自由自在にサイズが変えられるとか?)
話し方はのんびりとした口調で、優しそうだ。妖というよりは巨人という見た目で、ひとにとても近い姿をしていた。
作業しやすそうな紺色の作務衣を着ていて、格好だけであれば料亭の板前さんのようにも見える。髪の毛は短いようだが、大きな手ぬぐいを頭に巻いていた。
「じゃあ、ここ数日は、氷室の中に入っていないという事だな」
「はい····なにか氷室で問題でも起きましたか? 大黒天様からも
つまり、
梓朗は嘆息し、肩を竦めた。
「依頼の関係上、悪いが、これ以上は詮索しないで欲しい。お前がこの件に関わっていないという事は、よくわかった」
「弥勒様の命令とあらば、この
いつも思うが、弥勒という名は、この
「それと、ひとつ頼みがあるんだが、」
屈んだままの
それを横目で気にしながら、平良は山小屋の中を見回す。
家具を見る限りすべて手作りで、そのどれもが大きい。壁に掛けられた斧や木槌、大きな机と椅子。まるで小人になったような気分になる。
「話はついた。行くぞ、平良」
「あ、はいっす」
先に歩き出し自ら扉を開け、出て行こうとしている梓朗の右横に並び、頷く。そして外に出た後、なんとなく気になっていたことを訊ねる。
「さっき
内緒話をするのは良いが、されるのはなんだか寂しかった。幼い頃、それで何度も傷付いたのを思い出す。少し暗い気持ちを残しつつ、明るい口調で平良は訊ねる。
「お前には関係ないことだ」
「そうっすか······(俺に話しても理解できないってことかな?)」
すたすたと先に行ってしまう梓朗を追うように、平良も早足でついて行く。
氷室と森の木々の隙間から、重々しい天界の扉の上の方が覗いて見えた。供物が届く祭壇からは、ずいぶんと近い場所のようだ。
石造りの氷室は、直系約五メートルほどの半球型をしていて、扉を開けて中に入ると地下に降りる階段が続いていた。
ひんやりとする冷気を感じ、平良は辺りを見回す。灯りはないのに青白い光のおかげで、お互いの姿をはっきりと認識できた。
奥に進むにつれ冷気もどんどん強まり、梓朗は赤と白の椿の模様が入った黒い羽織の合わせ部分を握り、少しでも寒さを凌ごうとしているようだった。平良は紫紋から貰った青い上衣と黒い袴しか纏っておらず、自然と口数も減ってしまう。
(よく考えたら冷蔵庫の中に入るようなものなのに、何の準備もしてなかった)
ちょっと入って中を確認する、それくらいの気持ちでいたので、この時点でかなり後悔していた。そして地下への扉を開けた時、その後悔は更なる後悔を呼んだ。
「な····なんすか、あの、でっかいわんこ」
思わず小声で平良は梓朗に訊ねていた。なぜなら、三十畳ほどの広さの地下の貯蔵庫に、いるはずのない先客がいたのだ。
穀物や食料が入っているだろう、木箱や袋がいくつも几帳面に並べられている中、二メートル以上はありそうな大きな体躯の黒い獣が、視界に飛び込んできたからだ。
こちらには気付かずに、伏せの格好のまま眠っている大型の黒い獣は、もちろんただの犬ではないだろう。
「······あれは、
「狼さん? 確かに、普通のわんこよりも立派に見えるっす」
平良は梓朗の言う
山間部では、五穀豊穣や獣害から守るという意味で狼は信仰されており、目の前のそれは、その
(おかしい····なんでそんな
梓朗は嫌な予感を覚える。やはり、これはどう考えても罠だろう。
黒い獣の双眸がゆっくりと開かれる。そして、それがなんであるかを思い知る。なぜ、目の前にある食料がひとつも荒らされていないのか。
喰らい喰らわれるような血生臭い争いは、穢れを齎す。故に、供物を料理し食すことで、それを回避していた。
ここが荒らされていない理由は、ひとつだけ。
「
(って言われても、嫌な予感しかしないっ!)
その双眸は血のような赤い眼をしており、覗いた牙は鋭く、威嚇しながらこちらを睨んでいるようだった。口から流れる
黒い獣にとって、自分たちこそが"餌"なのだ。そして今まさに見定められている。
冷たい床に大きな体躯を伏せたままだが、いつでも飛びかかれるような体勢で、ふたりをその双眸に映しているようだった。
唸り声が一層大きくなり、赤い眼が狙いをひとつに絞る。その瞬間、獰猛な獣が態勢を変えて、獲物を捕らえんと勢いよく飛びかかってきた!
見事本日の獲物に認定されたのは、梓朗、ではなく、もちろん最強最悪の不運の持ち主である、平良の方だった――――。
(やっぱりこっちに来た――――っ!?)
わかっていたが、獰猛な獣を前に、平良はどうすることもできなかった。
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