十四、鐘楼守は見た!



 黒い靄が大路を吹き荒れる風の如く通り抜けていく。それは小路に入ってみたり屋根の上を巡ってみたり、天辺に大きな鐘がぶら下がっている高い櫓を、ぐるぐると蜷局を巻くように上に昇ってみたり、とにかく縦横無尽に駆け回っている。


 先程まで"夕"を告げる警鐘がけたたましく鳴り響いていたが、黒い靄が遠くに見えた時点で、鐘を鳴らしていた鐘楼守しょうろうもりは建物の中に身を隠しており、辺りは静寂に包まれていた。


「まったく······どうしてあんなモノが、この幽世かくりよに現れるんだ?」


 あれに少しでも触れれば、その身が穢れ、最悪""に堕ちて自我を失う。そうなれば、あの扉の向こう側へ送られ、存在自体がなかったことになる。


 鐘楼守を担う彼は野寺坊のでらぼうという妖で、名を響海きょうかいといった。見た目は無精ひげを生やした中年の男の姿で、ぼろぼろの袈裟を着た有髪僧のような姿をしている。しかしながらその印象は、良く言えばイケオジ、悪く言えば無職のダメ男というところだろう。


 身の丈に合わない上等な煙管キセルを懐から取り出し、煙を吹かす。何の気なしに、櫓の中に設けられた狭い部屋に付いている小窓に目をやると、完全に閉じないその小窓の隙間から、外の様子が少しだけ見えた。


 この櫓の真下には邪気の侵入を防ぐ陣があり、ある意味一番安全な場所である。なので、隙間があろうが特に問題はなかった。


「なんだ、あれは······、」


 路を駆け抜けていた靄が急に動きを止めた。よく見れば、その靄の前に人影がひとつ。その人影は遠すぎてはっきりと顔は見えないが、漆黒の外套を纏い、手に持っている何かを掲げていた。小柄で背の丸まった老人のように見えなくもない。


 その光景は異様で、響海は思わず煙管キセルを口元から離し、目を細める。


 あの迷惑な大きな黒い靄は、老人が掲げた何かに次々に吸い込まれて行き、しばらくすると、存在自体が初めからなかったかのように、消え失せてしまったのだ。


「······今のは、なんだったんだ?」


 次に瞬きをした時、路には誰もいなくなっていた。


「とにかく、弥勒の嬢ちゃん・・・・に知らせないと」


 逢魔が時が過ぎるまでは待機する必要があり、その後に"夜"を知らせる鐘を鳴らさなければならない。もどかしい気持ちはあったが、自分の仕事はきっちりこなすタイプの響海は、時間が過ぎるのをいつものようにひとり、この櫓の中でじっと待つのだった。



******



「という、わけなんだが····、」


 響海は先程目の前で起こった事を、見たまま一から話す。梓朗は"漆黒の外套を纏った老人のような人影"という言葉が出た時、一瞬だけ表情が変わった。それを見逃さなかった紫紋は、少なからずその特徴に関して梓朗がなにか知っているだろうことを確信する。その上で、口を開いた。


「その老人みたいな人影が掲げていたっていうモノがなにかは、今のところわからないってことだね」


「それに"穢れ"が吸い込まれて行ったというのも、気になります」


 識もまた、もうひとつの気になることを確かめるように呟いた。


「そのひと、その"穢れ"をどうするつもりなんすかね。退治してた、ってわけでもないっぽいし」


 前に見た黒い靄は"穢れ"に呑み込まれた妖、つまり""であったが、鐘楼守のおじさん、もとい響海が見たのは実体のない"穢れ"の靄らしい。違いは赤い眼があるかどうか。実体を持っているか否か、らしい。


「それを考えるのが、嬢ちゃん・・・・たちの仕事だろ? ······ってか、うま! なにこの食べ物! うまっ!」


「あ、それは酒粕入りのカステラっす」


「かすてら? 少年が作ったのかい? こりゃいい!」


 ぼろぼろの袈裟を着た僧侶姿の無精ひげのおじさんは、話を終えるなりばくばくと出された菓子を口に入れていく。最後に茶で流し込み、「ご馳走さん」と空になった皿と湯呑に手を合わせた。


 意外なことに、幽世かくりよではさまざまな食材が手に入る。どこから仕入れているのかは正直謎であったが····。ここの風景というか雰囲気が江戸っぽいだけであって、実際は現世うつしよと変わらないのかもしれない。


「じゃあ、真相解明よろしく!」


「······ちょっと待て、生臭僧侶」


 立ち去ろうとした響海に、俯いたままの状態で、めいいっぱいの低い声音で梓朗が呼び止める。


「どうした、嬢ちゃん・・・・、怖い顔して」


「だれが········、」


 あまりに自然すぎて今までスルーしていたのだが、入って来た時からこの鐘楼守は、ずっと例の禁止ワードを繰り返していた。平良は「あ、まずい」と久々に見る光景すぎて、止める間もなかった。目の前に置かれた空の湯呑を握り締め、梓朗がぷるぷると肩を震わせている。次の瞬間、


「だれが、嬢ちゃんだ・・・・!!」


「ぐはぁっ!?」


 梓朗がぶん投げた湯呑が、おじさんの顔面に見事クリーンヒットした。顔面に当たり跳ね返ってきた湯呑を、平良は慌ててキャッチする。おじさんはそのまま反動で後ろにひっくり返り、床に沈んだ。


「その汚物を外に捨てて来い」


 はーい、と紫紋と識が率先して動く。その一連の流れは明らかに慣れたもので、これが今に始まった事ではないということがわかる。


「こりないなぁ、響海さんは。もしかして、わざとやってるんじゃない?」


「わざとじゃなかったら、ただの馬鹿です」


 床でのびている汚い僧侶の足を、それぞれ一本ずつ持つと、ずるずると店の外へと運び出すふたり。乱暴に足を放るとそのまま扉を閉め、ひと仕事を終える。"朝"の鐘まではまだ十分に時間があるので、問題ないだろう。


「さて、静かになったところで、本題に入ろうか」


 紫紋は梓朗の正面に座って、その濃い紫みのある青色の右眼を見つめた。


「······その老人のような人影が、穢れを集めていたのなら、」


 梓朗は嘆息して、重たい口を開いた。


「そいつは、禍津日神まがつひのかみだ」


 紫紋も識もその名に覚えがなく、眉を顰める。ただその名の響きを聞いただけで、良い神でないことだけはわかった。


禍津日神まがつひのかみは、黄泉の穢れから生まれた神で、災厄を司る神。本来なら、祀ることで災厄から逃れられるといわれているが、」


「······なにか、問題が?」


 平良は突然出てきた"神"というワードに、得体の知れない恐ろしさを覚えた。前に、梓朗が言っていた。妖も神も、例外なく"穢れ"の影響を受ける、と。


「穢れを集めているのだとしたら、奴は、災厄を呼ぼうとしている可能性が高い」


 それこそ、なんのために、と紫紋は思ったが、神の考えなど下々の者にわかるはずはない。この幽世かくりよに災厄を齎せば、表裏一体である現世うつしよにも大きな影響を与えるだろう。


 この途方もない仮説に、梓朗はそれ以上言葉を紡ぐのを止めた。

 ただ、思い当たることがひとつだけある。



 だがそれを口にするには荒唐無稽すぎて、この時はまだ、その確信が持てなかったのだ――――。



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