第24話 これを純愛というらしい

 まず少年が湯の中に腰を下ろし、その右側に、人ひとり分の微妙なすき間をあけて少女が座る。


「わあぁ……。すっごく気持ちいい――」


「ああ……。そうだなぁ……」


 あまりにも心地よいので、ふたりは幼馴染と混浴中であることや羞恥心を完全に忘れ、しばし極上の時間を堪能するのだった。


 ――そしてふと気づけば、すでに宵闇が迫っている。


「……ふう、何だかんだでけっこう長湯してしまったな。……そろそろ出ようか」


 晴秋がふと我に返って久しく言葉を発すると、白い頬を薄紅色に染めあげた少女はとろとろした表情でうなずいた。


 多少の名残惜しさを胸にしまい込み、揃ってゆっくりと立ち上がる。


「だ、大丈夫か、梨乃。おまえ足ふらふらだぞ――うわっ!」「きゃああっ!」


 が、少々長湯が過ぎたようで、いっぽ歩きだしたとたん同時に倒れこむふたり。その影響は甚だ大きく、晴秋は梨乃を押し倒し、彼女の身を包んでいた手拭いが解け落ちた。

「――――――ッ‼」


 少女は悲鳴すら上げられず、焦燥にかられながら右手と手拭いで豊満な胸を包み、残る左手で下腹部を抑える。しかし、それでは隠せない部分が存在し、彼女の場合、あるいはその部位をどこよりも隠し通したかったかもしれない。


 その場所……つまり、腹部のへそ辺り。を目の当たりにした晴秋は、幼馴染の少女を浴場で押し倒している。という状況すら一度無視して、梨乃に問うた。


「――なっ……。おい、梨乃。おまえ……なんだよ、それ」


「――――――ッ! いやあっ、お願い、お腹見ないでぇぇ……ふええええん!」


「わ、わるい! ……すぐに身体拭く手拭い持ってきてやる!」


 泣いて、真っ赤になった顔を両手で覆い、ボロボロと涙を流す彼女を目の当たりにし、晴秋は男子用の脱衣所に駆けだした。


 女性従業員の手を借りようか、という考えも脳裏に浮上したが、梨乃の腹にあるを見せるのは得策にあらず。


 本人があれほど嫌がっていることもあり、その選択肢は失われた。


 少年は残された道を思考し、速やかに自分の身体を拭く手拭いを籠から引っ張りだして浴場に駆けもどる。


 梨乃はもともと身体を包んでいた手拭いを巻きなおし、なおも号泣していた。彼女をさらに刺激しないよう、晴秋は今できるもっとも優しい口調で声をかける。


「……梨乃、大丈夫か? とにかく一度落ち着いてここを出よう。……髪も濡れて冷たいままだろ? いくら夏が近いと言っても、このままじゃ風邪をひく」


 最大限配慮した声色で、少しは少女の支えになったのか。それまで顔を埋めていた梨乃は、色々なものでぐちゃぐちゃになっている顔をあげると。


「――ふぐっ――ぇぐっ! ……は、はるあきぃ! 私のこと、気持ちわるがらないの? こんなお腹なんだよ、私……。だから……絶対晴秋にだけは見せたくなかったのぉ~」


 ペタンと座りこみ、立つことすらできない少女。晴秋は彼女を動かすため、少し……ほんのわずかに口調を強めた。


「――おい梨乃、しっかりしろ。そんなことで気味わるいなんて言うわけないだろ。早くしないと――」


 そこまで言って、彼はふいに顔をしかめた。事態のさらなる悪化を確信して。だが、今ならまだ切り抜けられる。


「梨乃、梨乃っ!」


「――ッ! な、なに⁉」


 身体を揺すられる衝撃と鋭い声におどろき、放心状態にあった少女はようやくわずかに自分を取り戻した。


「大丈夫か? いま男子がわの脱衣所に人の気配があった」


「――――う、うそ! や、やだ……」


 目を大きく開き、また感情爆発を起こしかけた梨乃だが、晴秋は大丈夫と言ってどうにか彼女を落ち着ける。


「そう、とにかく落ち着くんだ。幸い女性の側には誰もいない……と思う。人が来るまえに行って着替えるんだ。俺もすぐ着替えて受付の前で待ってるから」


「――う、うん、わかった。……ありがとう、晴秋」


 こうして晴秋と梨乃は、思いがけぬ混乱をどうにか乗りこえ、温泉を後にした。


 ***


「……梨乃、少しは落ち着いたか?」


 すっかり日が落ちた宵の都。その門を出て閑静かんせいな山の小道に入ったところで、晴秋はそっと声をかける。


「…………うん。もう、大丈夫……だよ」 


 と、うつ向きがちに答える少女だが、その瞳から音もなく流れ落ちたきらめきを、並んで歩く少年は見逃していない。


 晴秋はふいに足を止めると、下を向いて足を引きずるように歩く梨乃の顔を、両手で優しく捕まえて強引に視線を合わせた。そうして久しく地面以外を向いた少女の顔には、驚きの表情と悲しげな涙が同居している。


「―――――ッ⁉」


「……はあ。ほら見ろ、こんなに涙流して……大丈夫なわけないだろ」


 と言って、親指で彼女の涙を優しく拭き取る晴秋。


 しかし、梨乃からしばらく反応はなかった。彼女は、『晴秋がこんなことするわけない』と言いたげに、ずっと彼のほうを見つめている。


 それから二百は数えただろうか。


 とにかく長い沈黙のすえ、ようやく少女の眼から涙が消え、その口が小さく動いた。


「あ、ありがとう……晴秋」


 平時の彼女と比べればまだまだ元気はないが、少年はそれでも安堵して肺の中の重苦しい空気を吐き出す。


「……いや、気にするなって。――でも、本気で号泣してる梨乃は久々に見たな」


 そう言われると、ちゃっかり頭に赤いりぼんは付けている少女はこくりとうなずいた。


「だって、幼馴染に見られたんだもん。絶対嫌われたって思った……」


 静かに言葉を紡ぎ、彼女は近くの岩に座って着物の帯を緩める。その仕草をみてどきっとした晴秋は、意味もなく咳払いをして平静を装った。


 やがて梨乃の着物を止める帯が力を失い、解放された桃色の着物が風に自由を求めたが、間一髪、持ち主の少女がその阻止に成功する。


「――あ、危なかった……」


「ま、まったく……おぬしは。人通りが無いからと言って、安易に外で帯緩めるなよ。もし飛んでいったらどうすんだ」


「う、う~ん……。は、晴秋の着物強奪して帰る……」


 ……などと、冗談を言えるほどには落ち着いたようなので、いざとなれば着物をはぎ取られる予定の少年も、ようやく心からの笑みを浮かべることができた。


 それからまたしばらく夜の静寂だけが流れ、突然それは破られる。


「……晴秋、これ――いったいなんだと思う?」


 と、梨乃が急に腹を見せてきたので、晴秋の心臓が穏やかさを失った。よく他の部分を出さずに腹部だけ見せられたな。と、密かに驚く少年だったが、その驚きが去ったあとは、ただただ困惑が残る。


 晴秋の目に映るのは、女性らしく華奢でしなやかな梨乃の腹部と、そこに刻まれた漆黒の何か。


 へそを取り囲むようにして、黒い記号のような……あるいは崩した漢字のような紋様が三つ存在している。


「う~ん……。よく見れば見るほど分からないな。――これ、いつからあるんだ?」


「……たぶん、生まれつき……。晴秋と初めて会ったときはもうあったと思うから」


 少女は曖昧な遠い記憶を辿りながら、着物の帯を締め直した。


「でもさ、例えば俺の妖力みたいに生活の支障になることないんだよな?」


「うん、だから隠そうと思えばどうとでもなるの」


 そう言って梨乃は、着物越しに自分の腹を触る。


 ――彼女の腹部にある正体不明の紋様。これについての会話はそれきりで終わり、やがて帰ろうという流れになった。


「晴秋、今日はありがとう。朝からこんな時間まで遊んでくれたし、それに……私の秘密を知っても嫌いにならないでくれて……」


 最後の言葉には、梨乃の思いすべてが込められていただろう。……自分の身に刻まれた謎の刻印。それを他人に見られれば間違いなく異端視される。これは、たとえ彼女でなく他の誰であっても同じ恐怖を抱く。


 ――そう思わざるを得ないほど、漆黒の刻印は不気味さをはらんでいた。


 それを突然幼馴染の異性に見られるなど、底知れぬ奈落に堕ちることと大差ない恐怖はあるだろう、と。晴秋は梨乃の心中をおもんばかった。


 そのうえで彼は、いま一度幼馴染の少女に繰り返す。


「梨乃……! 俺は今日、確かにおぬしの秘密を知った。それも、当の本人ですら正体が分からぬ秘密をな。

 ――だが、これだけは俺のなかで何があろうと変わらない事実がある」


 少年は声をはりあげた。己の確固たる思いをしっかり相手に届けるために……。それに応じるがごとく、相対する少女も精一杯の声で問うた。


「………………な、なにっ? 変わらないことって……」


 晴秋はふっと笑い、長かった今日一日を……いや、彼女と出会ってからの十年を脳裏で思い返す。


 そしていま、己のなかで確信を得た揺るぎないひとつの答えを叫んだ。


「――ああ。今日この日、俺はようやく理解した。たとえおまえが何者であろうと、俺にとって大切な存在だ!」

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