第5話「少年は平穏な生活を夢に見る」

 一週間後のこと。

 そのニュースは唐突に僕の耳に飛び込んできた。

『続いてのニュースです。昨日未明、N県○○町、××川の河川敷にて、全身を刃物で刺された男性の死体が発見されました』

 その時はまだ、右耳から左耳に聞き流していた。

 さて、そろそろ梨花が帰ってくるだろうから。冷たい飲み物でも用意しておこうと思い、台所に向かうと、ラックに置いてあったグラスを手に取る。

『顔の特徴、身分証明書の情報により、死亡していたのは、尼崎翔太さんであることが判明しました』

 ガシャンッ! 

 手から零れ落ちたグラスが、足元で粉々に砕けた。

「え?」

 恐る恐る振り返る。

 部屋の角に置かれたテレビに、事件現場となった河川敷が映されている。美人で評判のリポーターが、マイクを片手に中継をしていた。

『こちらの河川敷で発見されたのは、四十八歳の尼崎翔太さんで、尼崎さんは、全身を刃物で数百回刺されて亡くなっていたようです』

 砕けたグラスをそのままに、僕はテレビに駆け寄った。

『尼崎翔太さんは、東京の○○病院の医師として活動していましたが、十八年前にクローンを作成した容疑で逮捕され、つい最近まで服役していました。尼崎さんの死亡により、警察関係者、彼が勤めていた病院の方にも波紋が広がっています』

 そこで中継は途切れた。

 場面は再びスタジオに切り替わり、アナウンサーが『次のニュースです』と言う。

 そのタイミングで、部屋の扉が開いた。

「ただいまー」

 頬に汗を浮かべた梨花が、スーパーの買い物袋を提げて帰ってきた。

「ふー、暑いね。ねえ、シャワー浴びていい? まあ、許可もらわなくたって浴びるんだけど」

 そう言って部屋に上がる。

 僕は慌てて言った。

「ごめん、入るな!」

「え…?」

 牧野は、片足を上げたまま固まった。

「どうしたの?」

「あ…、ほら、足元にグラスが落ちているだろう? 危ないから、それ以上進んだらダメだ」

「あ、ほんとだ」

 梨花は、上げていた片足をひっこめた。

「って、これ、私のお気に入りのグラスじゃない? 落としたの? もー」

「ご、ごめん」

 テレビを消した僕は、慌ててガラス片の掃除に取り掛かった。

 箒なんて便利グッズは無かったので、直接指で摘まんで、傍にあった燃えないゴミの袋に入れていく。

 頭の中ではひたすらに、さっきのニュースで報道されていたことがぐるぐると渦巻いていた。

「………」

 なんで…? なんで、死んだ? なんで、尼崎翔太は死んだ?

 自殺した幸田宗也の体細胞を用いて、彼のクローンを作成した張本人。僕の生みの親。元凶。

 彼が、死んだ? しかも、ナイフで数百か所? 惨殺? 他殺ってことか? 一体誰に?

 ただの通り魔に襲われたのか…。いや、二十年前のあの事件と関係がある? それとも、もっと別の理由?

 もう関わらないはずだった。

 もう、会うことは無かったはずなのに…。どうして…こんな形で…。

「うっ!」

 指先が焼けるように熱くなった。思わず手を引くと、刺さっていた破片が床に落ち、カツン…と転がった。遅れて、傷口から赤黒い鮮血がにじみ出る。

「あ…」

思ったよりもザックリとやったようで、床に赤い液体がパタパタと落ちた。

「大丈夫? 青葉くん」

「あ、ごめん、ぼーっとしてた」

「ほんとしっかりしてよね。暑さでやられちゃった?」

 梨花は破片を踏まないようにしながら部屋に上がり、スカートのポケットからポケットティッシュを取り出した。数枚引き出し、僕の指の傷に押し当てる。

「絆創膏はあったっけ?」

「ええと、どうだろう?」

 圧迫止血をしている間に、左手で残りの破片を拾った。

 片付けが終わったタイミングで、血が滲んだティッシュを剥してみたが、遅れてすぐに血が滲む。ぼたぼたと床に滴る。

 木目に沿って広がる血を見たとき、背筋に冷たいものが走った。

「うわー、結構深いね。どうしよう…、絆創膏よりも包帯の方がいいかな? 黴菌が入ったらダメだし、消毒液も用意しないと…」

 梨花は新しいティッシュを引き出し、傷に押し当てた。

「自分で押さえていてね。私は、ちょっと救急箱探してくるから」

 ぱたぱたと部屋の奥に走っていく。

 ティッシュに血を吸われる感覚。裂けた血管の奥で、血小板が必死に寄り集まり、フィブリンとともに血液を凝固させようとしている。いや、もちろん、そんな感覚はしないのだけど、そんな気がしてならなかった。

 次の瞬間にでも、地球がパキリと真っ二つになるような、日本の公用語が日本語からスワヒリ語になるような、イモリが爬虫類に分類されるような、僕が男じゃなくて女になるような、黒が白になるような…。そんなわけのわからない脅威が、僕の幸せを突き破って、背後まで近づいているような気がした。

 何かが、起ころうとしている…。何かが…。

「大丈夫?」

 冷汗をだらだらとかいている僕を、梨花が覗き込んだ。

「そんなに痛かったの? 病院に行く?」

 その手には、救急箱が抱えられていた。

「あ…、いや、大丈夫」

「本当に? やせ我慢しなくていいのに」

 僕が震えているのが、切り傷による痛みだと思っている梨花は、しゃがみ込み、傷口に消毒液に消毒液を塗った。包帯をきつく巻きつけ、上から包帯留めを貼った。

「これで大丈夫」

 ぽんっと肩を叩かれる。

「じゃあ、私シャワー浴びてくるね。布団敷いておいて」

「うん…」

 すっかり恥じらいが無くなった梨花は、僕の前で、汗が滲んだシャツを脱ごうとした。

 慌てて背を向けると、救急箱を持ってリビングに戻る。風呂の扉が閉まる音を聞くと、額に浮いた汗を拭い、ため息をついた。

 大丈夫。きっと気のせいだ。尼崎翔太が死んだことに、僕は関係ない。きっと、通り魔か、別の案件で恨みを買っていたやつから報復を受けたのだろう。僕みたいなクローンを作成するようなマッドサイエンティストだから、各方面から恨みを買っていてもおかしくない。

 気にすることは無い。

 静江さんだって、前に言っていたじゃないか。「青葉くんは青葉くん。もう、尼崎さんや、赤波さんには会っちゃダメよ」って。その言いつけを守っていればいい話だ。

 あいつらとは…、関係が無い…。

 とにかく、ベランダに干してあった布団を取り込み、敷いた。ずっと陽光に当たっていたので、やわらかく、そしてぽかぽかしていた。この上に寝ころぶと気持ちいいに決まっている。さっき起こった嫌なこと全部忘れて、安眠できるに違いない。

 そうだ、僕はいつものようにふるまうだけでいい。それでいい。

 シャワーを浴び終えた梨花が、バスタオル一枚で出てきた。いつものように、衣装ダンスに入っていた僕の服を着る。そして、シャンプーのさわやかな香りを漂わせながら僕に飛びついてきた。

「じゃあ、寝ようか」

「…うん、そうだな」

 僕の表情の変化に、梨花は気づいていた。

「さっきからどうしたの? ずっと、浮かない顔しているね」

「いや…」

 何でもない。と言いかけたとき、梨花は思いついたように言った。

「もしかして、アパートの前の記者さんのこと?」

「え…」

「さっきも、アパートの前の電柱の陰に隠れて、青葉くんの部屋を窺っていたのよ。しかも、私が前を通ると、こそこそ見てきて、すごく気持ち悪かった」

 ああ…、坂本記者のことか。今はあの人のことはどうでもいい。

「夏休みに入ってからよく見かけるよね。この暑い中ご苦労なこと」

「そうだな、コーラでも差し入れてやろうか」

 そんな冗談を言う余裕は残っていた。

 梨花はしつこく、「本当に大丈夫?」と聞いてきた。無理して笑って、「大丈夫だよ」と返したが、見え見えの嘘だとばれていた。

「本当に大丈夫だから、梨花と寝れば、嫌なことも忘れるから」

 頭を撫でてそう言うと、彼女はあからさまにうれしそうな顔をして、僕に抱き着いた。押し倒されるような形で布団に横たわる。僕は彼女の頭から香る、甘いシャンプーに匂いにうっとりとしながら目を閉じた。梨花も、僕の胸に顔を埋め、深い息を吸い込みながら眠る。

 世間では、男女が布団の上で一緒に眠るということはつまり、「子づくり」、またはそれに酷似した行為を表すらしい。でも、僕たちは抱き合うだけで十分だった。それだけで、心は満たされた。孤独を埋めるのは、性欲ではなく、同じ孤独なのだ。マイナスとマイナスを掛けたらプラスになるようなものかもしれない。

 今日も僕たちは、現実逃避をする。それだけで、幸せだった。

 そのささやかな幸せの崩壊は、目と鼻の先まで迫っていた。

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