その⑦

 少し、昔のことを思い出したよ。

 中学生の頃の話だ。

 ある日の放課後、いつものように、クラスメイトから、二十年前の事件を糾弾された僕は、顔を鬼のように歪ませながら、帰ろうとしていた。

 沸き上がる怒りを抑えることができず、ドンッ! ドンッ! と、下に聞こえるくらいの勢いで廊下を踏みしめながら歩き、一階に続く階段に差し掛かった時だった。

 一歩踏み出した時、下の踊り場に、女の子が倒れているのが見えた。

隣のクラスの奴だと気が付く。捲れたスカートから、彼女の太ももが見えるのだが、それは青紫に腫れあがっていた。階段から転げ落ちて、骨を折り、気を失ったとすぐに分かった。

 僕はバカだった。あれだけ、学校の奴らに嫌われているのだ。女の子を見つけても、無視すればよかった。それなのに、僕はその子を助けようと思ってしまった。

 まだ、自分が殺人鬼ではないことの「証明」が欲しいと思っていたのだ。

 僕は階段を駆け下り、気を失っている女の子に近づいた。

 大丈夫か…? って口を開く直前、一階から男子生徒が登ってきた。

 踊り場で脚の骨を折って気を失っている女の子と、それに近づく僕。それを見た男子生徒。

後は想像通りだ。

 すぐに先生が飛んできて、僕は有無を言わせず、床に組み伏せられた。何度「違います」と叫んでも、「嘘を付け!」と聞き入れてくれなかった。引きずられて、職員室に連れて行かれて、激しく叱責された。「どうしてあんなことをしたんだ!」「やっぱり正体を現したな!」って。

 それでも僕は訴えた。「違います」。そして、目撃した生徒にも言った。「僕がそんなことをしていたように見えたか!」と。

 彼の顔は青くなっていた。そして言った。「見ました」と。

 それを聞いて、先生たちは勝ち誇ったような顔をした。

 その後はもう大変だった。校長、気を失った女の子の母親、PTA役員までもが学校にやってきて、僕と、里親の静江さんを糾弾した。「お前はクローンだ。人間じゃない」と言われたのが結構きつかったのを覚えている。

 嬉しかったのは、静江さんだけが僕のことを信じてくれたことだ。彼女は何度も首を横に振り、「青葉くんはそんなことしません」と訴えた。周りからは、「殺人者の親だから、殺人者の思考か」と嘲笑が起きた。

 結局、意識を取り戻した女の子の証言で、僕は無罪となった。それなのに、僕の一か月の停学が無くなることはなかった。

 それ以来、僕は人と関わることに、さらに消極的になってしまった。

 教室の隅で、虫のように息を吸い、冬の湖のように静かになった。

 もう人なんて、助けるもんか。そう思っていた。

 そんな僕だったが、今日、牧野を助けた。人を助けた。

 明日は隕石でも降ってくるのだろうか?

「…おい、着いたぞ」

 牧野梨花を背負ったままアパートに戻った。

 布団の上に彼女を寝かせ、濡らしたタオルを額に当てる。まるで息を引き取るように眠ってしまった。薄く閉じられた目の下には、睡眠不足の象徴である隈が浮いていた。

 僕は彼女の横に座り、本を読んだり、スマホでネットサーフィンをしたりしながら時間を潰した。時々、温くなったタオルを替えたりした。

 牧野は二時間ほど眠り、九時を過ぎる頃に目を覚ました。

 身体を起こし、僕を見る。それから、部屋を見渡し、目をぱちくりとさせた。

「え、ここ、どこ?」

「変なことはしてないから、警察を呼ぶのだけは勘弁してくれ」

 そう言うだけで、彼女は今の状況を完全に理解した。

 せっかく血色がよくなっていた顔が赤く染まる。怒りに蹴り飛ばされたように手を振り上げたが、すぐに下げた。そして、諦めたようなため息をついた。

 下唇を噛み締め、そして、消え入るような声を絞り出した。

「ありがと…」

 まさか感謝されるとは思っていなかった僕は、反応に困った。

「なんだよ、熱が出て頭がおかしくなったか?」

「うるさい殺人鬼」

 かと思えば、いつもの牧野梨花だった。

彼女はつんけんとした声で言った。

「今、何時?」

「ええと、九時過ぎかな」

「そう、よかった」

 安堵の息を洩らす。

「親に連絡は入れない方が良かっただろ? 首吊って体調不良なんて話、聞かれたら大問題だ」

「そうね」

「まあでも、こんな遅くになっちゃったからな…。今頃心配しているだろうな」

「そんなことないわ」

牧野は食い気味にそう言った。

「あの二人が、私のこと心配するはずないもの」

「ああ、そう」

 なるほど、家族関係か。触れない方がいい。

「それに、今はまだ、塾の時間だもの」

「塾って、そんなに長い時間やっているの?」

「うん、十一時まで」

 ということは、あと一時間ちょっとは、家に帰らなくても心配されないのか。

「ええと、どうする? 何か飲むか? と言っても、水と麦茶と…」

「要らない」

「あ、ポッキンアイスもあるんだった」

「要らない」

 牧野梨花はそう言った。

 冷蔵庫に向きかけていた僕は、ロボットのような動きで彼女の方を見る。

「じゃあ、どうする?」

「もう少し寝かせて」

 そう言うと、彼女は足元のタオルケットを手繰り寄せ、ミノムシのように体に纏った。

 それを見たとき、僕の中に、「女の子が布団の上で眠っている」という自覚が生まれ、腹の底が熱くなるのを感じた。

「ごめん、そのタオルケット、洗ってないから、臭いかも…」

「…うん、あんたの匂いがする」

 牧野梨花は目を閉じたまま言った。

 裸を見られたような気分になって、しどろもどろになる。

「あの、新しいやつに取り換えるから、その…」

「うるさい殺人鬼」

 タオルケットは絶対に渡さない。とでも言うように、牧野梨花は身を捩って、タオルケットをさらにきつく巻いた。

「寝かせて…、一時間後に、起こして」

「…あ、うん」

「それに、嫌な匂いじゃないから、大丈夫…」

 ボソッと放たれた言葉に、僕が「え?」と反応した時にはもう、彼女は肩を上下させながら、寝息を立てていた。

 安らかな寝顔と、自分の手を見比べた僕は、そっと、体臭を嗅いだ。シャワーを浴びたときの、ソープの匂いが残っていた。

「なんだよ…」

 僕は、膝に顔を埋めた。

 僕は殺人鬼だ。僕には、罵詈雑言がよく似合う。そんな捻くれて育った僕に、優しい言葉なんてかけてみろ。泣きたくなるじゃないか。

 時計を気にしながら、学校の勉強をしたり、洗濯をしたりした。

 傍で、もぞもぞ動いていても、牧野は起きる気配を見せなかった。それどころか、「うーん…」と唸り、寝返りを打った。その拍子に、はだけたポロシャツの隙間から、彼女の下着が見えてしまったのは言うまでもない。その度に、僕はタオルケットを掛け直した。

 一時間くらい経って、一度肩を揺さぶったが、牧野は起きなかった。しつこく揺さぶると、「うるさい殺人鬼」と言って、タオルケットを被って丸くなってしまった。

 結局、十一時を過ぎるまで、彼女は起きることは無かった。

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