その⑧

 十一時を回った頃、彼女はようやく目を覚ました。時計を見るなり、眉間に皺を寄せて、僕の横腹を蹴った。

「もう少し早く起こしてほしかったんだけど」

「いや、起こしたよ。お前が起きなかっただけだろ」

「起こしても起きないのは、起こしたうちに入らないの」

「なんだ? その、努力しても結果が出なかったら努力していないのと同じ…みたいな理論は」

 牧野梨花は、僕をもう一発殴ろうと手を振り上げたが、吹っ切れたように手を下げた。それから、「まあいいや」と言って立ち上がる。

「娘の帰りが遅くたって、心配するような両親じゃないしね。もしかしたら、お祝いの準備をしているかも」

「なんじゃそりゃ」

「そのままの意味よ」

 彼女は静かに言うと、傍に置いてあった鞄を手に取った。

「癪だから帰ってやるの。出来損ないの娘を前にして、それを産んだ自分たちの遺伝子を呪えばいいわ」

 そう言い残すと、すたすたと玄関に向かった。僕もその後に続く。

「あの…、送っていこうか?」

「要らない」

 またそう言うと、揃えておいてあったローファーに足を通す。

 出て行く直前、牧野は僕の方を振り返って言った。

「ねえ、あんたってさ、私に『殺人鬼』って呼ばれるの、嫌い?」

「え、嫌いだけど…」

 少し考えて頷く。

「まあ、慣れたな。だって、十七年間、そうやって言われてきたんだぞ」

 言った後で肩を竦める。

「嘘。言われるたびに、ちょっと胸が痛くなる」

それを聞いて、牧野梨花は「そう」と頷いた。

「ねえ、明日も、来ていい?」

「あ?」

 一瞬、聞き間違いかと思った。

「明日も、来るのか? こんな、殺人鬼の部屋に? 殺されても知らないぞ?」

「殺したら殺すから」

「なんじゃそりゃ」

 牧野が放った拳が、僕の腹にめり込んだ。彼女は僕に顔を近づけ、上目遣いに言った。

「殺人鬼って、言われたくないんでしょ?」

「いや、確かにそうだけど…。もう手遅れって言うか」

「だったら、私に証明させてあげる」そう言うと、髪を揺らして背を向けた。「あんたは、私に居場所を提供する。私は、あんたが殺人鬼じゃないことを見届ける。これでいいでしょ」

「いや…」

 いろいろツッコミどころが多くて、それ以上の言葉が出てこなかった。

 殺人鬼じゃないと信用して欲しかったら、この部屋を避難所にさせろ…ってか? 

ただ、自分の居場所を獲得するための口実が欲しいだけじゃないか。

 都合のいい話だ。僕は、この女に利用されようとしている。むかっ腹の立つ話だ。

 それなのに、思うように怒れなかった。

「じゃあ、よろしく」

 彼女はそう言うと、扉を押して開けた。首だけで振り返り、こう言い残した。

「布団、ありがとね」

 パタン…と扉が閉まる。空気が制止し、再び静寂が舞い降りた。

 部屋の布団から、玄関のドアノブまで、彼女の香りが糸を引くように残っていた。

 僕はため息をつくと、その場にしゃがむ。それから、そのほのかに甘い香りを吸い込み、再び息を吐く。今度は安堵の息だった。

「ありがとう…ね」

 静江さん以外の人間からそんな言葉を言われたのは、何年ぶりだろうか? いや、多分、生まれて初めてだ。ただ、寝床を提供しただけなのに、生まれて初めて、人に感謝された。

 手を見る。頬に触れる。

 こんな殺人鬼の姿をしている僕でも、人に、「ありがとう」と言われた。まるで、宝くじが当たったかのように実感がなく、そして、嬉しかった。

「ああ、くそ」

 人のことを「殺人鬼」って言ってみたり、殴ってみたり…かと思えば、感謝を述べてみたり…。都合のいい女。

 半開きの窓から、生温い風が吹きこんでいる。

とにかく、茶と菓子を買っておこうと思った。

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