その⑥
まさか殴られるとは思っていなかった僕は、強張りながら梨花を見た。
彼女はため息をつくと、僕を殴った手をぷらぷらと振る。
「やけくそにならないでよ。自分の本心、言えばいいじゃない」
「だから、僕は、さつ…」
またもや張り手が飛んできて、僕の頬を叩いた。
何食わぬ顔をした梨花は、顎をしゃくった。
「ほら、言いなさいよ。自分の本心」
「何度も、言ってきたじゃないか…」
僕は肩を落とす。
「でも、ダメなんだよ。僕がいくら主張したって…、みんな、許してくれないんだ」
舌打ちが聴こえた。
顔を上げると、また、梨花が手を振り上げている。
彼女は淡々と僕に促した。
「…ほら、言いなさいよ。自分が何したいか」
「ああ! もう!」
これじゃあ、強迫じゃないか…と思いつつ、僕は叫んだ。
「生きたいよ! 自由になりたいよ! 僕は、殺人鬼なんかじゃないよ!」
そう言ったうえで、さっきの話の続きを語る。
「でも、ダメだろ? ダメなんだ。みんな許してくれない。僕がいると、みんな傷つくんだ。もう嫌なんだよ。疲れるんだよ…もう…」
最後の方は、言葉にならなかった。
僕の泣き声を黙って聞いていた梨花は、顎に手をやり、静かに頷いた。
そして、ぽつりと言った。
「…さっき、青葉君と坂本さんが喧嘩している間に、ちょっと、考えてみたんだ」
「何を…?」
「私の人生について」
思い出したように、足元のパイプを蹴りつける。彼女が怒っている証拠だった。
「青葉君と比べるのはおこがましいかもしれないけど、私も、気分の悪い日々を送ってきた。いっつも、お姉ちゃんと弟と比べられて…、『病院で取り違えた』とか、『出来損ない』なんて、笑えない冗談ばっかり投げつけられて…。だから私は、そうならないように、必死になって頑張った。そりゃあ、『頑張った』の基準は人それぞれかもしれないけど、私の日々に、怠惰は存在しなかった…。いっつも、死と隣り合わせの日々だったの…」
炎が迫ってくる。
「それで、もう全部嫌になって、死のうとした…」
梨花が、僕を見つめる。
「それを引っ張り上げてくれたのが、青葉君だった」
思い出すのは、梨花が川に飛び込んだ時のこと。
「ねえ、青葉君、あなたはどうして、私を助けようと思ったの?」
「…それは…」
僕はあの時のことを思い出しながら、言った。
「人が死ぬところなんて見たくなかった。それに、自殺だなんて…、間違った形というか…。虚しいと思った…」
いや違う。そんな言い訳じみたことで助けたわけじゃない。
もっと根本的な感情…。
「僕は人間なんだ。人を助けることは、当たり前のことじゃないか…」
「うん、そうだね」
梨花は満足げに頷いた。
「あなたは『他人だから』とか、『関わり合いたくない』とか、そんなことを思うよりも、純粋な気持ちで、私を助けてくれたの。自分の本能が赴くままに、あの時、川に飛び込んだの」
拳を握った梨花は、噛みしめるように頷いた。
「うらやましいな…って思ったよ。青葉君はずっと、自分が自分であろうとしていた。殺人鬼じゃない…篠宮青葉であろうとした。人が作った壁に、抗い続けていた。すごく、かっこよかった。私もなりたいって思った。両親が作り上げた優等生の型にはまるんじゃなくて、私らしく生きていきたいって思った…」
それでね…と言って、彼女は胸に手を当てる。
「貴方と一緒にいて、私らしく、生きていけるようになったの。本当の私を、見つけることができたの…」
そう言う彼女の目は、山際から覗く朝日のように輝いていた。
ああ、そうか…って思う。
初めて出会った時、僕を罵倒した梨花。
過ごしているうちに、僕を認めてくれた梨花。
僕の傍に居てくれるようになった梨花。
その変化はまるで、蝶が蛹に変貌するかのような、劇的で、儚くて、美しいものだった。
「それで、私が間宮穂乃果さんのクローンってことが判明したわけだけど…」
ついで話のように口を開いた彼女は、次の瞬間、息を思い切り吸い込んだ。
「知らんわ!」
そう、叫んだ。
「私がクローンだから、私の行動全部、間宮穂乃果さんのもの? 私が青葉君を愛したから、私は間宮穂乃果さんになるってこと?」
強く、地団太を踏む。
「ほんっとうに! 知らんわ!」
こんな緊迫した状況だというのに、関西人っぽいツッコミ。
違和感がすごくて、思わず頬が緩む。
梨花は僕の方を振り返ると、苛立ちにまみれた言葉を散々吐き出した。
「間宮穂乃果の記憶? 馬鹿じゃない? 私は! 自由に生きようとする青葉君が好きだったの! 青葉君の匂いが好きなの! 周りに何を言われようが、必死に生きようとしていた青葉くんなの! 私の傍にいてくれた青葉くんが好きなの! 二十六人殺した殺人鬼なんて知ったこっちゃないし、その殺人鬼と愛し合った女なんて…」
息を吸い込む。
「どうでもいいわ! 私の脳裏に、これっぽっちもいるもんか! 私は私だ! 私は牧野梨花だ! 私は牧野梨花として生きていくんだ! 誰に何を言われようが、私は牧野梨花なんだ! そうやって生きてきたんだ! そうやって生きていたいの!」
駄々をこねる子どものように、そう捲し立てる。
そして、僕を睨んだ。
「青葉君だってそうでしょう? 自分が誰だか決めるのは、自分でしょう? そうやって、生きてきたでしょ? 生きようとしたでしょ? 他人じゃない。だって、自分のことは、自分がよく知っているんだから!」
「……そんなこと」
彼女の言っていることがごもっともだと思いながらも、僕は視線を逸らした。
そうだよ。その通りだ。自分が何者であるかを決めるのは自分だ。そうやって生きてきた。でも、現実はそううまくいくもんじゃない。
わかっていたとしても、足を、からめとられるんだ。
歯切れの悪い僕を見て、梨花はまた舌打ちをした。
「ああ! もう! 青葉君は優しすぎるんだよ!」
またもや、苛立ちに任せてパイプ椅子を蹴る。
「だったら…」
その時だった。
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