その⑦

 いつの間にか体勢を整えた坂本さんが、突風のような勢いで迫ってきた。

 その手には、ナイフ。

 僕は梨花を突き飛ばす。庇ったつもりだったが、それを読んだ坂本さんは軌道を逸れ、ふらついた梨花の腹に蹴りを入れた。

梨花は悲鳴をあげて吹き飛び、壁に背中を打ち付ける。

「梨花!」

 坂本さんはすかさず身を翻すと、僕の頬を切りつけた。

血が散り、思わずよろめく。

とっさに腕を伸ばし、彼女の胸ぐらを掴んだ。ブツン! とシャツのボタンが弾ける。

引っ張って投げようとしたが、力が入らない。

坂本さんは身を引き、僕の腹に蹴りを入れた。激痛が走る。胃の中のものを吐きながら、背中から床に倒れ込んだ。その上に、坂本さんが馬乗りになり、ナイフを振り下ろす。

 咄嗟に坂本さんの手首を掴む。しかし、踏ん張った瞬間、肩の傷に激痛が走り、力が抜けた。そのまま、押し切られ、ナイフの切っ先が胸骨の辺りに突き刺さった。

「がっ! ああ!」

「ふざけるなよ…!」

 もみ合いの中、坂本さんのスーツのボタンは弾け、黒いブラジャーが露わになっていた。それを気に掛ける余裕も無く、彼女は獣のような目で僕を睨んだ。

「何度も言わせるな…、お前は、幸田宗也じゃなくちゃいけない…。お前が幸田宗也じゃないと…、私は、救われない…。そうやって、生きてきたんだ…」

 皮膚を破り、鋭い刃が骨にめり込んでくる。

「私のことを気の毒に思うのなら! 殺人鬼となって死んでいけ! 何故まだ生にしがみ付く! この世界で生きていたって、お前は人々に嫌われ続けるんだ!」

 それ以上、刃は進まなくなった。

 坂本さんは抜くようなことはせず、そこから柄を捻って、切っ先で骨を擦った。

「死ね! 早く死ね! 死ね! お前は殺人鬼なんだ! お前はクローンなんだ!」

 チリチリと視界が点滅する。意識が消えるのは時間の問題だった。

 地獄のような苦しみをかき消すように、僕は発狂した。

「ふざけんなああああああああああっ! あああああああっ!」

 坂本さんの腕に爪を立て、一ミリほど押し返す。

「僕だって死にたいよ! 死んで楽になりたいよ! 生きていたって、苦しいことばっかりなんだからさあ!」

 梨花は言った。「自分が誰かなんて、決めるのは自分」だと。

簡単な話だ。今までだってそうしてきた。僕は篠宮青葉でありたかった。

だけど世界は、いつも僕たちのことを拒む。

 僕が声高に「篠宮青葉」と叫んでも、人は僕を「幸田宗也」として見る。

 僕が、本が好きなのも、僕が、ポッキンアイスが好きなのも、パン派なのも、暑がりなのも、ひねくれているのも…全部、幸田宗也から受け継いだのかもしれない。

 僕の存在は、誰かを不幸にする。坂本さんは、その一人だ。

 それでもなお生き続けるということは、増水した川の流れに逆らって歩くようなものだった。

「ああああああああ! 死にたい! 死にたい! 死にたいいいいいいっ!」

「だったら! 死ね!」

 坂本さんが押し返す。

「でも!」

 次の瞬間、僕は身を転がすと同時に、腕の力を抜いた。

 軌道を逸れたナイフが、僕の耳を掠め、床に突き刺さる。

 キンッ! と澄んだ音を立てて、刃が折れた。

 よろめいた坂本さんの頬を殴りつけ、さらには彼女の胴に足を絡め、一気に救い上げ、倒す。

「この!」

 坂本さんの上に乗ろうとした瞬間、彼女の手が僕の胸を突いた。

 身体中の骨が軋むような激痛が走り、僕は獣のような悲鳴をあげながら床に転がる。

 濡れた手で踏みとどまり、すぐに向かっていこうと下半身に力を込めた。だが、水道管が破裂したみたいに、肩から血が噴き出す。

 途端に、視界が灰色に染まり、水と油を混ぜたように、歪んだ。

「あ…、う…」

 糸が切れた人形のように、倒れ込む。額を強く打ち付けたが、痛みがなかった。

「あ、アあ…、ああ…」

 まずい…出血が多い…。いや、炎による一酸化炭素中毒か?

 いずれにしても、三途の川の、青っぽい水の臭いが鼻の奥にこびり付いている。

「…くそ、くそ…」

 早く逃げないと…。

 痺れるような感覚の手をついて、顔を上げた。

 坂本さんが突風のように迫って来て、僕の顔面を蹴りつける。

 ガンッ! と衝撃が脳内に響き、視界の中で、赤い閃光が弾けた。

 空中に放り出されたような、海に飛び込んだような、いや、宇宙を漂っているかのような浮遊感が全身を駆け巡り、熱した糸を切る様に、四肢の感覚が消え失せた。

 ああ、ダメだ。踏みとどまれ…。意識を失っちゃ、ダメだ…。

 顔がのけぞり、背中から床に倒れ込むまでの、約一秒で、僕は自分の身体にそう訴えかけた。

 だが、背中が床に触れ、視界が揺れた瞬間、蛍光灯をたたき割った時のように、苦い煙をあげながら、目の前が真っ暗になった。

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