【美しき思い出】
「宗也、結婚式はどうするんだ? この村には結婚式場なんてものないけど、選んでくれたら、それなりに手配はするよ」
若き日の尼崎翔太の声が聴こえた時、僕はまたもや夢の中にいるのだと気が付いた。
いや…、夢というよりも、記憶。
僕の細胞に刻まれた、幸田宗也の記憶が、まるでレコードのように再生されているのだ。
ああ、嫌だなあ…と思いつつ、顔を上げると、そこは何処かの家の居間だった。
六畳ほどの空間。中央にちゃぶ台があって、そこで幸田宗也と尼崎翔太が向かい合って茶を飲んでいた。
「僕は、洋式がいいかなあ。宗也のタキシード姿…きっと似合うと思うんだ」
弟分の晴れ姿を想像した兄は、天井を仰ぎ、目をうっとりとさせた。
そんな兄を見て、幸田宗也はため息をつくと、茶を啜る。
「結婚式は、しないよ」
「え…、なんで?」
面食らった顔をする尼崎翔太。
「やろうよ。兄さんに、弟の晴れ姿、見せてくれよ」
「恥ずかしくてできるかよ」
ふふっと笑う幸田宗也。
「それに、他に誰を呼ぶんだ? だだっ広い教会に、にいさんと、静江、夏帆の三人を集めたって、物寂しいだけさ。別に、いいよ。僕は、今のままで幸せだからさ…。わざわざ祝う必要なんてない。穂乃果さんだってそう言ってるし…」
「ええ! おにいちゃん、結婚式しないの?」
今の襖が勢いよく開いて、制服姿の、赤波夏帆が入ってきた。
幸田宗也の話を盗み聞いていた彼女は、頬を膨らませ、彼に飛びつく。
「ねえ、結婚式やってよ。やらないとか、絶対に損するって!」
「騒がしいのは嫌いさ」
幸田宗也は困ったように笑い、妹の頭を撫でた。
「いつも通りでいいよ。僕は。いつも通り、お前らと生きているだけで、幸せだよ」
「それとこれとは別!」
欲のない兄に、赤波夏帆は不満げだった。
開きっぱなしになった襖の方を振り返ると、その陰に隠れていた誰かに言う。
「ね? そう思うでしょう?」
襖の陰から、若き日の静江さんが顔半分を出して、こちらを見ていた。
彼女の姿を見て、幸田宗也が噴き出す。
「おい、静江、何やってんだ。そんなところに隠れて…」
「静江、おにいちゃんと穂乃果さんがいちゃいちゃしてるから、拗ねてるのよ」
喋らない静江さんに代わって、赤波夏帆が笑いながら言った。
「昨日も、構ってくれなかったって、学校行く途中で愚痴ってた」
「ちょっと! ねえさん!」
ここでやっと、静江さんが頬を赤らめて部屋に入ってきた。
「言わないで…って言ったでしょう? 兄さんと穂乃果さんが仲良くするのは、夫婦だから当たり前のことなんだからね! 私のは嫉妬で、いけないことなんだから」
「別にいけないことじゃないさ」
幸田宗也は柔らかな笑みを浮かべると、ちゃぶ台の下に入れていた足を出し、胡坐をかいた。そして、太ももを二回たたく。
「ほらほら、構ってやれなくて悪かったな。昔みたく、乗って来いよ」
「もう! にいさん! 私もう子供じゃないんだから!」
スカートの裾を掴んだ静江さんは、駄々をこねるように怒った。
「じゃあ、私が乗る!」
恥ずかしさからか遠慮する静江さんをからかうように、赤波夏帆が、幸田宗也の膝の上に乗り、背をもたれた。
「おおっと!」
幸田宗也は大げさな声をあげると、赤波夏帆と一緒に畳の上に倒れ込む。
「いやあ、夏帆も、重くなったなあ」
「いや! 重くないから!」
夏帆は心外な顔をして言うと、彼に一層体重を掛けた。
それを見ていた静江さんの顔が、みるみると青ざめていく。そして、むっと唇を結ぶと、落ちたものを掴むような勢いで、二人に向かって飛び込んでいた。
どすんっ! と、木造の家が揺れて、埃が立つ。
「おい、やめてくれよ…、本当に重いから。二人は、本当に重いから…」
「「重くない!」」
静江さんと夏帆にもみくちゃにされる幸田宗也は、本当に幸せそうな顔をしていた。
そんな三人を、尼崎翔太は愛おしそうに眺めていた。
「どうしたの? 四人で仲良くしちゃって。私を仲間外れにしないでよ」
廊下の方から声がして、今しがた仕事から帰ってきた間宮穂乃果が入ってきた。
「あ、穂乃果さんお帰りなさい」
幸田宗也が、顔を上げる。
「ただいま、宗谷君」
間宮穂乃果は笑うと、脇に抱えていた鞄を足元に置いた。
「それで、何やってたの?」
「ああ、そうだ!」
赤波夏帆が思い出したように声をあげた。
「穂乃果さん、聞いてくださいよ。おにいちゃん、結婚式は挙げないって言ってるんですよ?」
「ああ、その話ね」
穂乃果さんは困ったように笑った。
「私、絶対やった方がいいと思うんですよ。穂乃果さん綺麗だから、ウエディングドレスも白無垢も絶対に似合います!」
「私も、そういうの苦手かなあ」
間宮穂乃果は申し訳なさそうに、頬を掻いた。
「籍だけ入れて、あとはいつも通りってのは、ダメ?」
「だ、ダメじゃないけど…」
結婚式をやるきの無い二人を前にして、夏帆はみるみるとその勢いを失っていった。
「ええ~、でも、見たいなあ、二人の晴れ姿」
「そうだよな? 見たいよな」
それに、尼崎翔太が応戦した。
「にいちゃんも、見たいなあ」
そして、幸田宗也に必死にしがみ付いている静江さんの方を見る。
「静江も、結婚式に、行きたいよな?」
「行きたい」
静江さんも、頷いた。
三人は勝ち誇ったような目で、間宮穂乃果と、幸田宗也を交互に眺めた。
「というわけだ。多数決で、結婚式、やるぞ」
「ええ~」
間宮穂乃果は困った声をあげた。
「別にいいのに」
「じゃあ、こうしよう」
そう言って手を挙げたのは、幸田宗也だった。
「そろそろ暖かくなって、あの丘に桜が咲く。そこで、結婚式をしよう。五人だけで、桜の花を眺めながら、美味しいご飯を食べるんだ…」
間宮穂乃果、赤波夏帆、尼崎翔太、静江さんを交互に見て、そして、フフッと笑う。その目は、何処か疲れている印象を僕に与えたが、その奥には、晴れた日の湖面のような、澄んだ光が宿っていた。
「それでいいだろう? 僕には、お前たちがいるだけで、十分なんだから」
「仕方ないな」
尼崎翔太が肩を竦めて頷いた。
「じゃあ、料理、作らないとな」
「じゃあ私が作る!」
「やめてよ、ねえさん下手なんだから」
「なによお、静江だって下手じゃない」
「私は最近、穂乃果さんに教えてもらってるし」
「ああ、いいなあ!」
「夏帆ちゃんも、うちに遊びに来てくれたら、教えてあげるよ?」
「でも、穂乃果さん仕事で忙しいじゃない」
「そろそろ研修終わるし、多分、余裕出来る…かなあ?」
居間には、そうやって、心の傷を通して繋がった、一つの「家族」が、和気藹々と言葉を交わしていた。
そこに、血なまぐささは存在しなかった。怒りも、悲しみも、痛みも、彼らの生きる障害となるものは、何もなかった。
幸田宗也はひたすらに、仏のような笑みを浮かべて、生きていた。
「ねえ、にいさん」
静江さんが、彼の腕を掴む。
どうした? と目を向ける彼に、彼女は頬を赤らめながら言った。
「私はね…、にいさんの幸せを、願ってるよ」
「なんだそれ。急にどうした」
幸田宗也は、ははっと笑った。
そして、彼の頬に、涙が一筋伝う。
「ほんと、生まれてきてよかったよ」
そう零した彼は、静江さんを抱き寄せた。
「あ、ずるい」
すかさず、赤波夏帆が、二人に抱き着く。
「じゃあ、僕も」
悪乗りした尼崎翔太も、彼らに抱き着いた。
そして、間宮穂乃果もまた、彼らに近づき、抱きつく。
四人の愛しき人たちに抱きしめられた幸田宗也は、くぐもった声で言った。
「こうやって、生きた証を刻んでいくんだろうな…」
その言葉を聞いた瞬間、僕は強い力に、引っ張られた。
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