その④
「近隣住民から通報が入ったよ」
一時間目の授業が始まる前、僕は先生に呼び出され、生徒指導室の椅子に腰を掛けていた。
「君が、小学生を襲っていたって」
「襲ってません」
「小学生の親からも通報が入ってる。君に襲われそうになったって」
「襲ってません」
僕は先生と決して目を合わせず、淡々とした口調で言った。
先生もまた天井の方を見て、傍にあった机をコツコツと叩いていた。
「これで何回目だ?」
「さあ? 少なくとも、十回は通報されたかな」
肩を竦める。
「もういい加減わかれよな。お前は、まともに生きていい人間じゃないだろ?」
「僕は人間ですよ」
「自分のやることが、誰かを傷つけるってことを覚えておけ…」
カラン…と乾いた音を立てて、先生が持っていたペンが転がる。
目だけを動かして僕を見た先生は、何とも面倒くさそうに言った。
「多様性って言葉を盾に、お前はこの高校に入学したんだ。俺が試験管なら、とっくに落としてる。そのことを理解して動けよな。でないと、すぐに退学にさせてやるからな」
「…わかりましたよ」
若干不満そうな口調に、先生は何か言いたげな顔をした。
約十三秒の沈黙。
「…もういい、いけ」
耐えかねたように言われ、僕は立ち上がった。
「失礼します」
扉に手をかけた時、背後から舌打ちが聴こえた。
「ったく、手えかけさせんなよ」
先生の顔を殴りたくなる衝動を抑え、僕は外に出た。
もう授業が始まっているから、廊下には誰もいない。
まっすぐ進んで曲がれば僕の教室だったが、落ちていた綿埃が、どこからともなく吹き込んできた風によって、渡り廊下の方へと飛んで行った。
まるで引き寄せられるように…という言葉を口実に、僕は踵を返して、渡り廊下に進んだ。
理科室や家庭科室がある南校舎の廊下を無駄なカロリーを消費しながら歩き、また渡り廊下を渡って、北校舎に戻る。そして、しばらく階段の踊り場でボーっとした後、教室に戻った。
扉を開けると、国語の授業を受けていた生徒らが、一斉に僕の方を振り返る。
気にしまい…と思っていたが、皮膚が冷えるような感覚がした。
「遅れてすみませんでした」
俯きがちに言うと、頬に力を込め、自分の席に歩いていく。
強張ったような教室に、誰かの声が響いた。
「事情聴取でも受けてたのか? 殺人鬼」
その言葉が僕の足首に絡めつき、歩みを止めた。
水面を殴りつけた時のように、明らかに教室の空気が騒めくのがわかる。
声のした方を振り返ると、ふと、おとなしそうな女の子と目が合った。
彼女は「ひっ…」と悲鳴を上げると、俯いてしまう。その横にいた細身の男が、横目で僕を見てにやにやと笑っていた。
「今日は誰を殺したんだ? いつ逮捕される?」
男は続けざまにそう言う。周りにいた者たちが、みるみるこの世の終わりみたいな顔になっていく。
「ちょっと、三宅くん…、静かにしてよ」
新任の若い国語の先生が泣きそうな声で言った。
三宅…と呼ばれた男は鼻で笑い、椅子の背もたれに体重を預けた。
「なんすか? 先生、怖いんですか? 幸田が」
「いや…、それは…」
まさか生徒を「怖い」なんて言えるはずもなく、先生は固まってしまった。
腹の底から、何かがこみ上げて、胸の真ん中で詰まるような感覚。糸に引っ張られているみたいに、指先がぴくぴく…と痙攣する。
つま先はもう三宅の方に向いていた。
「なんだ? やるのか?」
それに気づいた彼は、挑発的に言った。
耐えろ…耐えろ…耐えろ…。そう必死に言い聞かせる。
さらに、頭の中で静江さんに言われた言葉を反芻させた。
『絶対に、喧嘩をしちゃダメだよ』と。
よし…、大丈夫、僕は大丈夫。大丈夫…。
ひゅっ…と息を吸い込むと、貼りついた絆創膏を剥がすかのように、思い切って踵を返し、自分の席についた。
何事もなかったように、鞄から教科書、ノート、ペンケースを取り出し、机の上に広げる。
それを見た三宅は、大げさに舌打ちをした。
国語の先生は、ほっと息を吐いて、授業を再開する。
でも、僕が帰ってきた教室はそれどころじゃなくて、みんな肩を強張らせ、そわそわとしていた。まるで、授業参観の時のよう…。いや、市のお偉いさんが視察に来た時のような…、そんな殺伐とした空気が漂っていた。
誰かが、ぼそり…という声が聴こえた。
「ほんと、気味が悪いわ」
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