その⑤
今日も世界は、正常に運行されていた。
みんな僕のことを、化け物を見るような目で見て、話しかけてくれる人なんていない。目が合えばすぐにそっぽを向かれ、少し動くだけでも、まるで戦場に時のように身体を強張らせた。
永遠とも思える、肩身の狭い時間だった。
当然、授業の内容なんて頭にはいるはずもなく、常に、脳と頭蓋の狭間に煙が溜まっているかのような感覚がした。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、僕は、助かった…と思い、席から立った。
鞄を掴むと、背後から投げかけられる、「おい、殺人鬼、今日は誰を殺しにいくんだ?」という言葉を無視して、教室を出る。
他のクラスの人間に悲鳴をあげられながら歩いて、学校を出た。
日はまだ高く、向かいの路地を生暖かい風が吹き抜ける。
「お腹空いたな…」
ぽつりとつぶやいた時、「静江さんに抱き着いて甘えたいな…」と思う。
そして一秒後には、里親の静江さんはもうこの世にいないことを思い出し、鼻で笑った。
「…あほらし」
アパートに帰ったって、僕を祝ってくれる人間なんていない。仏壇に話しかけていたって、虚しいだけだった。
一瞬、家の方に向きかけていたつま先を反転させ、僕は歩き始めた。
行先なんて決めていない。今朝に見た人を殺す夢、朝の子どもたちの悲鳴、そして、教室で言われた「殺人鬼」という言葉をかき消すように、たわんだアスファルトを踏みつけた。
そんな僕の姿を見て、道行く者たちは顔を引きつらせながら見てくる。中には、「うわあ! 殺人鬼だ!」と大声で言う者もいた。
絶対に、暴力に訴えてはいけない…という、静江さんとの約束を守り、僕は逃げるように歩いた。歩いて、歩いて、歩いて、風に攫われたビニール袋みたいに歩き続けた。
日輪が、西の山に隠れた。赤い余韻を残しながら、世界の輪郭が薄れていく。僕の姿を、覆い隠していく。吹き付ける風が冷えていく。
さて、どうしようか?
そう思っていると、生臭さが鼻を掠めた。その臭いに誘われて、少し歩を速めて路地を出ると、大きな川があった。舞い降りた夜に誘われるように、黒い水がゆったりと流れている。
「………」
ちょうどいい、ここで感傷にふけるとしよう。
僕は急こう配の芝生を恐る恐る下り、コンクリートブロックのすぐ目の前に立った。二メートルくらい先に、夜の黒い水がのんびりと流れる川がある。当然、生臭さはそこから漂ってきていた。
どぷんっ! と魚が跳ねる音がした。
水深はどのくらいだろうか? まあ、橋の欄干に「ここで遊んではいけません」という旗が掛かっているのだから、「危険な深さ」ということは確かか。
ブロックに片足をかけ、水面を見つめる。
「…………」
ざぷん…と、波が岸に触れた時、ふと思った。
今なら、死ねるんじゃないか? って。
「…………」
僕の足元には、藍色に光る線が引かれている。
こちら側が「生」。向こう側が、「死」。
覚悟さえ決まれば、簡単に踏み越えることができる。
「…よし、行ける」
そう自分に言い聞かせた僕は、息を吸い込み、一歩踏み出した。
だがその瞬間、まるで腕を引っ張られたように、重心が後ろに傾き、硬いアスファルトに尻もちをついた。
痺れるような痛みが、背中を這って広がっていく。
「………」
冷えた風。青臭い水。ざらついた、アスファルト。
「ああ…」
僕はため息をつくと、わが身を抱くようにして蹲り、膝に顔を埋めた。
「何やってんだろ」
強く閉じた瞼の裏に、今日の出来事が走馬灯のように過っていく。
僕を見て逃げ出す子どもたち。僕を見て顔を顰める先生。僕を嘲笑する同級生。
そして、人を殺す夢。
思い出しただけで、心臓の裏側が引きつるように痛んで、腹の底から、溶けた内臓が零れ落ちるような感覚があった。
どぷんっ! と、魚が跳ねる音で我に返る。
顔を上げた先にあった川は、相も変わらず鈍重に流れている。臭いし、汚いし、蛍が飛んでいるわけでもない。冷たいわけでも、飲めるわけでもない。
そんなものを見つめる時間に生産性など皆無で、阿保らしく思えた。
「………」
帰ろう…。
鼻で笑いつつそう思った僕は、手に力を込め、立ち上がろうとした。
その時だった。
ガサガサ…と、背後で、音がした。
一瞬は、風で芝生が揺れる音だと思ったが、すぐに、誰かが芝生を踏みしめている音だと気がつく。誰かが、土手を降りてこちらに向かってきているのだ。
そう気づいた瞬間、僕は海に潜る前のように、息を止めた。
後ろめたいことなんて一つもしていないのに、脈が速くなり、体温が一度上がる。
「………」
誰だ? 誰が後ろにいるんだ?僕みたいに感傷にふけりにきたのか? いや、釣り禁止の河原で夜釣りか? それとも…。
咳払いでもして僕の存在をアピールしても良かったのだが、タイミングを失ったような気がして、それ以上音を発することができなかった。
動くこともできず、足音だけが近づいてくる。
そして、背後から歩いてきた者が、僕の横を通り過ぎた。
町の明かりでぼんやりと照らされたそのシルエットを見たとき、僕は、はっとした。
それは若い女だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます