その⑥

 それは若い女だった。

華奢な身体は、高校のブレザーを身に纏い、風に吹かれた黒髪がカラスの翼のようにはためいている。川の生臭さに混じって、微かな甘い香りが鼻を掠めた。

女? 高校生? なんでここに?

困惑する僕に気づいた様子を見せず、女はさらに一歩踏み出した。そして、ふう…と大げさな息を吐くと、持っていた鞄を落とす。

そして、ぴょんっ! と、目の前のコンクリートブロックに跳び移った。

足場の悪いブロックの上で、まるで踊るようにステップを踏む彼女。そして、揺れながら、奥へ、奥へと進んでいった。

 僕は、そこで初めて、この光景が異様であることに気づいた。

 はっとして、女が落とした鞄に目を向ける。よく見てみると、それは、僕のものと同じスクールバッグだった。紐の色は…薄闇でわかりにくいが臙脂色。つまり、僕と同じ二年生のもの。

 河原に、女の子。しかも、危険なコンクリートブロックの上に立っている。

 そして、僕と同級生?

 その瞬間、僕は掠れた声で叫んでいた。

「おい!」

 僕の声に、女の子が振り返る。その拍子に、ぐらっとバランスを崩した。

 あ…と思った瞬間、女の子のシルエットが視界から消えた。

遅れて、ドボンッ! と、白い水しぶきが、藍色の夜空に向かって吹きあげられた。

全身を駆け巡るのは、血が凍り付くような感覚。

「あ…、くそ!」

 電気に触れたみたいに立ち上がった僕は、悪態をつきつつ、学ランを脱いで放った。

 ズボンのポケットから財布を取り出し、背後の芝生に投げ捨てると、息を吸う間もなく、地面を蹴って飛び出す。コンクリートブロックの上に飛び乗り、足元なんてろくに見ないで、その先にある泡立つ水面に一直線。

「ああああああっ! くそっ!」

 ここで、少したとえ話をしようと思う。

 昔々、あるところに、二十六人もの罪のない者を殺した殺人鬼がいたとする。

 その殺人鬼は、虐殺を行った後、自らの喉を突いて自殺した。

 その殺人鬼の細胞を使って、クローンを作成したとする。

 そうして生まれてきた子どもは、殺人鬼と同じ姿をしているわけだが、その子が冷然たる虐殺を行ったわけではない。

 それでも人は、彼のことを「殺人鬼」と呼ぶのだろうか?

 それでも彼は、「殺人鬼」と同じ人生を歩むことになるのだろうか?

「わああああああああああっ!」

 走り幅跳びの選手のように、大きく弧を描く僕の身体。

 次の瞬間、僕は生ぬるい水の中にいた。

 耳の奥で、くぐもった泡が弾ける音がする。シャツが水を吸い、汗ばんだ肌を滑る。気持ちいいと感じたのは一瞬で、途端に鉛のような重さとなって僕の身体に貼り付いた。

 すぐに水面に顔を上げて、女の子を探す。

女の子は十メートル程先を海に向かって流れていた。

藻掻いていない。動く気配もない。

 僕は歯を食いしばると、流されていく女の子に向かって、必死に腕をかいた。

 苦い水を飲み込みながらも、少しずつ加速して、女の子に近づく。

「おい!」

 湿った声で言いながら、女の子の肩を掴み、空気が吸えるよう引っくり返す。

「しっかりしろ!」

 その時だった。

 バチンッ! と水気を含んだ音と同時に、僕の頬に痛みが広がった。

「え…」

 数秒の沈黙。余韻として広がっていく、痺れるような痛み。

 ビンタをされたのだと気づいた瞬間、僕は目を見開き、顔を上げた。

「え…?」

 変な声を出して、女の子を見る。

彼女はいつの間にか体勢を整え、水の中に立っていた。

ふんっ…と息を吐くと、僕の頬を打った手の水滴を払い、猫のような眼で僕を睨む。

そこに、溺れている様子は微塵も無かった。

「え…、君、何やっているの?」

「それはこっちのセリフなんだけど」

 艶のある声が聞こえた。

 女の子は恨みがこもった声で言った。

「人の自殺の邪魔をして、楽しい?」

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