その⑦
百メートル程流された後、コンクリートブロックが無い場所から岸に上がった。
女の子は「ああ、もう」と苛立った声をあげると、水が滴るスカートを絞った。
僕もポロシャツの裾を絞りながら、恐る恐る聞いた。
「え、ええと、君、さっき何やっていたの?」
「自殺に決まっているでしょう?」
「え、でも…、泳げていたじゃないか」
「子どもの頃に習ったからね。そうだろうとは思ったけど、やっぱり死ねなかったか」
「え、やっぱりって…」
状況が理解できない。
スカートを絞り終えた女の子は、頬に張り付いた黒髪を絞った。
「別に、本気で死ぬつもりは無かったから。死ねたらいいなあ…って気持ちで川に飛び込んだの。あんたが声を掛けなくても、次の瞬間には飛び降りていたから。そして、あんたが飛び込んでくるまでもなく、岸にたどり着いてた…」
「いや、それは…、わかったんだけど」
「次は首吊りにしようかな…」
女の子の唇から、そんな冗談めいた言葉が洩れる。
「ダメだろ、死ぬのなんて」
そんな言葉が、僕の口を衝いて飛び出していた。
女は、はっとして、生臭い水が滴る前髪の隙間から僕を睨んだ。
「どうしてそんなことが言えるの?」
切りつけるような一言。
「私が死にたいから死のうと思ったの」
一歩詰め寄ってきたとき、コツン…と乾いた音が響く。
「死にたかったの。これが私の意思なの。あんたは私の意思を尊重してくれないわけ? それとも何なの? あなたはこれからの私の人生を保障してくれるわけ? 一生苦しまない生活を送らせてくれるわけ?」
また一歩こちらに近づいてくる。
「そうした上で、私を助けようと川に飛び込んだの? 『死ぬな』なんて言ったの?」
夜だから、彼女がどんな顔をしているのかはわからない。
でも、その殴りつけてくるような声に圧され、僕は半歩下がった。
途端に、コンクリートの亀裂に踵が引っ掛かり、尻もちをついた。
デジャブのような感覚とともに、尾骨に、絵の具が滲むみたいに痛みが広がっていく。
そんな僕を見て、女は鼻で笑った。
「言葉に責任を持とうよ。感情に任せて動いていたら、身がもたないよ」
それじゃあね…。そう言った女は、踵を返し、川上に向かってふらふらと歩き始めた。
僕はその後ろ姿を呆然と眺めていたが、頬を伝った雫がつま先に落ちた途端、腹の底に怒りが湧くのがわかった。
それと同時に、今日一日で、僕に投げかけられた言葉が、脳裏に響く。
サツジンキ、サツジンキ、さつじんき、殺人鬼。殺人鬼。殺人鬼殺人鬼殺人鬼殺人鬼、殺人鬼殺人鬼殺人鬼殺人鬼殺人鬼…。
プツン…と、何かが切れる音。
次の瞬間、僕は尻を蹴り飛ばされたように走り出し、女に追いついた。
彼女の細い手首を掴むと、無理やり振り返らせる。
「…おい、待てよ」
精いっぱい声を低くしたつもりが、泣きそうな声だった。
「あの場面じゃ、判断できなかった…」
「あ? 何言ってんの?」
女の、威圧するような声。
その声に負けじと、僕は坂道を転がるがごとく勢いで言った。
「君はさっき、『自殺をしようとした』と言ったけど、君が飛び込んだ時点で、僕はそれを知らなかった。わからなかった。川を眺めようとして、足を滑らせて落ちたのだと思った。だから、助けようと思ったんだ」
「立ち入り禁止のコンクリートブロックに乗る奴なんて、自殺志願者以外にいるわけ?」
「例えそうだったとしても、君自身に聞くまでは確証が持てなかったんだ。君が自殺をしようとしているのかわからない以上、僕は君の生を守らなければならない…。そう思った」
もちろん、こんな長ったらしいことをあの一瞬で思ったわけじゃない。あれは本能だったのだ。人間が進化する中で、細胞に刻まれた、他者にも適応される「生を守る」という本能だ。
言い切った僕は、空気が抜ける浮き輪のごとく、ゆっくりと肩の力を抜いた。
「邪魔して悪かったな。よくよく考えたら、僕と君は他人なんだから、そこまで干渉する必要も無い。ただ、僕が言いたいのは、そこまで言われる筋合いは無いということだよ」
「…なによ」
女は苛立ちに任せて僕の手を払いのけた。
「そうだったとしても…、私は…」
言いかけた瞬間、河川敷沿いの道路を車が通り抜けた。
車から発せられた白いハイビームが、僕と女の横顔を照らす。
そこで初めて、僕たちはお互いの顔を認識した。
「あ…」
「え…」
お互いに、間抜けな声をあげた。
「お、お前…」
夏の影を切り取ったような黒い髪、猫のようなつんとした目。鼻筋が通り、頬はふっくらとして、そして白い。案の定、その華奢な身体に纏っていたのは、僕が通っている高校のブレザーだった。やっぱり、見覚えがある。
「お前、牧野梨花か…?」
そう言った瞬間、再び、パンッ! と乾いた音が響き、黒い空に吸い込まれた。
痺れるように痛む僕の頬。
牧野の顔を見ると、彼女は心底軽蔑したような目で僕を見ていた。
鼻で笑いながら言う。
「なんだ…、あんた、幸田宗也じゃない」
胸がちくっと傷む。
「…いや、違う」
「まさか、殺人鬼に人の生き死を説かれるなんて思わなかったわ」
心が、パキリ…と割れる。
「おい、待てよ」
歩き出す彼女を引き止めようとしたが、彼女は振り向きざまに僕の手を払った。
そして、こう言い残した。
「自分の意思も持たないクローンに言われる筋合いなんて無いわ」
クローン…。という言葉が、継矢のごとく僕の胸に突き刺さった。
「それじゃあね。また明日」
牧野梨花が夜に消えていく。
今度こそ僕は、その美しい背中を呆然と眺めた。
湿気た風が吹き付ける。身体が濡れていたので、みるみる体温が奪われるのが分かった。たまらず犬みたいに身震いをして、その場にしゃがみ込んだ。口から生温かいため息をつき、膝に顔を埋める。そして、一滴の涙を落とした。
「ふざけんなよお…」
感傷にふけるついでに、自己紹介といこう。
僕の名前は、「篠宮青葉」。
またの名を、「幸田宗也」。
二十年前に起こった、殺人事件の犯人の細胞より作られた、クローンだ。
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