その⑤
アパートに戻り、部屋の扉を見たとき、僕は深いため息をついた。
扉には、赤いスプレーで「出ていけ」と書かれていた。それだけじゃない。ドアノブの上の方が殴られたように凹んでいた。そしてその横に、大家さんのものと思われる字で、「修理代を請求します」という張り紙があった。
「踏んだり蹴ったりかよ」
僕は泣きそうになりながら紙を剥した。
「ねえ、早くしてよ」
「わかってるよ」
怒りっぽく言いながら鍵を開ける。
牧野は真っ先に部屋に入り、玄関でブレザーも制服も脱ぎ捨てた。
風呂場で足を洗うと、衣装ダンスから僕の服を引っ張り出して着る。勝手に冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを取り出し、勝手に開けて飲んだ。そして、勝手に布団にもぐり込み、すやすやと眠り始めたのだった。
いつものように、僕は彼女の服を洗濯し、扇風機の前に掛けて乾かす。
十一時頃には起こせるよう、時計を気にしながら作業した。
一息つくと、座布団を引き寄せ、そこに腰を下ろした。
僕の傍では、「天才」と呼ばれ、羨望の眼差しを向けられる女がいる。幸せそうな顔をして眠っている。
牧野の顔を見ていると、誘われるように、僕にも睡魔がやってきた。抗おうにも抗えず、指の力が抜け、首をかくっ…と折り、そのまま、泥に沈むように、ゆっくりと気を失う。
そして、また、夢を見た。
夢の中で、僕は血だまりの中に立っていた。
靴に熱い血が染みこむ感覚が妙にリアルだった。そんな中、人を斬り殺した日本刀の刃を眺めている。刃には、人の血肉、髪の毛がべっとりとこびり付き、もとの鏡のような美しさは失われていた。
不意に、べちゃり…と、血が跳ねる音が聞こえた。
音の方を見ると、二十代くらいの若い女が、血まみれ傷だらけで、小便を流しながらも逃げおおせようと床を這っているのがわかった。その腕には、四歳くらいの女の子を抱えていた。
僕は日本刀にこびりついた血肉を指で拭うと、パシャンッ! と血を跳ねさせて立ち上がった。這っている女に近づき、そして、刀を振り上げた。
あ…、女が死ぬ、
「ねえ、大丈夫?」
その瞬間、眠っていた僕の頬を、誰かが撫でた。
夢を破壊して割り込んでくる、鈴のような声と、冷たい指の感覚。全身の毛が逆立つような、ぞわっ…としたものが、触れられた場所から、つま先にまで駆けた。
「うわあ!」
僕は叫ぶと、手を振っていた。その時、指先にザクッ…と何かを引っ掻くような感覚が残る。それと同時に、牧野の呻く声が聞こえた。
汗まみれで目を覚ました僕は、電気に触れたように後ずさり、後ろの壁に背中をぶつけた。
「え…、あ、ええ…?」
見ると、そこには、牧野が蹲っていた。干してあった制服を着ている。
ぽた…と、床に赤い雫が落ちた。
「あ…」
自分が何をしたのか気づき、慌てて駆け寄った。
「ご、ごめん」
顔を上げさせると、彼女の右頬に、僕の爪で抉られた赤い傷があった。
ああ…、くそ、やっちゃった…。
「本当にごめん…、そういうつもりじゃなかった…、ちょっと、びっくりしちゃっただけ…」
「うん…」
牧野は傷から溢れる血を拭って頷いた。
「…わかってる」
「悪気はなかったんだ…、ちょっと、混乱して、だから、だから…」
息が絶え絶えになる。髪の毛を掻き毟る。
「僕のことを、殺人鬼って、呼ばないで…」
「うん…」
牧野は僕の方を見ずに頷いた。立ち上がると、血で汚れた手で、肩を叩かれる。
「あんたが苦しそうだったから…、声を掛けただけなの」
「本当に、ごめん」
「布団取ってごめんね。ちゃんと寝なよ。隈、すごいから」
そう言い残すと、牧野は鞄の紐を掴み、部屋を出て行ってしまった。
パタン…と扉が閉まると同時に、最悪感が右心房に噛みつき、死ぬんじゃないか? ってくらいに動悸が速くなった。
僕は床に額を押し付けて蹲ると、ガリガリと頭を掻いた。食いしばった歯の隙間から洩れるのは、「僕は殺人鬼じゃない…」という、殺人鬼の悲痛な声だった。
その日は眠れなかった。
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