その④
悪夢を見て、記者にしつこく詰め寄られ、張り紙を見て、そして、昔の嫌な出来事を思い出した僕は、腹の底に重油でも溜まっているかのような、重々しい気分で学校に着いた。
こういう日は、大人しくしているのに限る。まあ、毎日大人しくしているけど。
でも、こういう日に限って、周りは僕を放っていなかった。
「あ…、幸田さんだ…」「ほんとだ」
階段を上がろうとした時、小さな声で話すのが聞こえた。
振り返って睨むと、通り過ぎようとしていた一年生二人は、蛇に遭遇したみたいに、そそくさと行ってしまった。それだけじゃない。廊下を歩いていると、向こうから歩いてきた女子が、限界まで脇に寄って横を通り過ぎて行った。それを横目に進もうとすると、遠くから「おい! 幸田宗也!」と言う声が聞こえた。振り返ると、男子がキャッキャはしゃぎながら、廊下の向こうへと走り去るのが見えた。
最近、今までにも増して、周りの態度が悪くなった気がする。
原因は、多分二週間前にあった、僕が牧野梨花に話しかけて、それを勘違いした女子が、先生を呼んだ事件だ。あれに尾ひれがついて、この学校に広まっているんだ。
もうめちゃくちゃだった。耳を澄ませているだけで、「彼は女の子をレイプしようとした」とか、「公園の猫を殺していた」とか、「前の中学では人を殺して退学になった」とか言われていた。こういう根も葉もないうわさが流れるときは大体、畏怖よりも、悪意が混じるものだ。
普段なら無視をするけど、一応、釘を刺しておかないと…。
その日の昼休み、僕は窓際で友達と弁当を食べていた三宅大河に話しかけた。
「なあ、三宅」
「お! 幸田じゃん! どうした?」
だから…、僕の名前は、篠宮青葉で…って言っても仕方がないか。
「あのさ…、僕の噂を流すの、やめてくれないか?」
「あ? 何のことだ?」
案の定、彼はとぼけた。そのピエロのような姿に、周りにいた男子が笑う。
殴りたくなる気持ちを必死に抑え、僕は続ける。
「もちろん、お前が噂を流しているっていう証拠はない。だから、報復もしない。釘だけは刺しておく…。僕はそういう人間じゃなないってことを、知っていてほしい」
それだけ言って、僕はその場から離れた。後ろからは、男子たちの下品な笑い声と、「なんだよ、殺人鬼の癖に度胸無いのな」という声が聞こえた。
昼休みが終わるころには、僕が「三宅大河を脅迫し、『殺すぞ』と言った」という噂が広まっていた。
三宅大河だけじゃなく、あの時の事件で、先生を呼びに行った女子にも声を掛けた。「あの時、牧野梨花に話しかけたのは、ただ、彼女と話をしたかったから。殴るつもりはなかった。広まった噂を消すことはできないけど、あれは誤解だったってことを知っていてほしい」と伝えた。
放課後になる頃には、僕が「女子を脅して『殺すぞ』と言った」という噂が広がっていた。おかげで、生徒指導の先生に呼び出しを食らい、こっぴどく叱られた。それだけじゃない。脅した覚えも、話しかけた記憶も無い生徒の親が乗り込んできて、「うちの子を虐めた」と喚き散らした。幸い証拠がなかったので、僕が停学や退学になることは無かったが、ほんと、気分が悪くなった。
散々糾弾され、生徒指導の先生に、「次やったら退学だからな」という脅しを受けた僕は、ふらふらで校門を出た。
「おつかれ」
門の横で、牧野梨花が待っていた。
憔悴した僕を見るなり、鼻を鳴らす。
「おとなしくしていてよ。でないと、あんたが帰るのが遅くなるでしょ」
「おとなしくしていたつもりなんだけどな」
先生の野太い声で怒鳴られ、親の金切り声を交互に聞いたせいで、耳の奥が疼いていた。
牧野梨花は壁から背中を剥すと、すたすたと歩き始めた。振り返り、顎をしゃくる。
「ほら、早くしてよ」
「あ…」
「私の睡眠時間が少なくなっちゃうじゃない」
「ああ…、うん」
僕は重い足を一歩踏み出す。
牧野に追いつくと、彼女は何かに気づいたような顔をして、僕の目を覗き込んだ。
「すごい隈…」
「え…」
「ほら、目の下よ」
そう言って、牧野梨花のしなやかな指が、僕の目の下を撫でた。
「眠れていないの?」
「ああ、うん。眠れるわけがないだろ」
「まあ、そうだろうね」
僕の状況を知っている彼女は、淡々と言った。
「ねえ、知ってる? 人間って、眠らないと死ぬんだよ」
「死ぬね…」
睡眠不足、そして、学校での出来事でストレスが溜まりに溜まっていた僕は、なぜか笑っていた。
「死んだら、楽になれるのか…」
「馬鹿じゃない?」
コツン…と、牧野梨花が僕の額を殴る。それだけで、眠気と疲労が少し吹き飛んだ気がした。
「あんたが死んだら、私の居場所が無くなるでしょ」
「ああ、そういう…」
まあ、そうだよな。牧野は別に、僕のことをどうこう思っているわけじゃない。僕のアパートで眠る、ただそれだけのために、僕を利用しているだけだ。
僕は先に進む彼女の背中を追って、歩き始めた。
横から差し込む陽光は、容赦なく僕の頬を焼く。垂れた汗は、妙にしょっぱかった。
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