その②

 空腹が紛れた後は、虚しい気持ちを抱えながら皿を洗った。

 シャワーを浴びて、念入りにうがいをしたというのに、鼻の奥に、川の水の青臭さが残っている。

 その臭いを嗅いで思い出すのは、牧野梨花のことだった。

 あの時、川に飛び込んで、自殺まがいのことをしようとしていた、牧野梨花。

 お互いに面識があったのには訳がある。同じ歳、同じ高校に通っていることはさることながら、僕と彼女は、同じクラスだったのだ。もちろん、面識はあっても、言葉を交わしたことは無い。だが、お互いに目立つために、自然と顔を覚えていたのだ。

 勘違いの無いように言えば、「目立つ」と言っても、僕と彼女じゃまったく印象が違う。

 かつて二十六人を殺害した殺人鬼のクローンということで悪目立ちする僕とは対照的に、彼女は、「天才」として目立っていた。

牧野梨花は、今までに行われたほとんどのテストで、良い点を叩きだしている。真偽のほどはわからないが、学年で五位以下を取ったことが無いらしい。「ただ勉強ができるのなら、天才ではなく、努力家じゃないのか?」と思うかもしれない。だが、彼女は運動もよくできた。体育祭の対抗リレーでアンカーを走らせれば、必ず一人を抜いて戻ってくる。グループマッチでバスケットボールをやらせれば、無理な体勢からでも必ず点を入れてくれた。そして、牧野が「天才」である確固たる証拠は、彼女の家族にあった。

父親は病院の先生。母親は県庁の職員、しかも重役。姉は某有名国立大学に通い、弟はまだ中学生だが、サッカーの方で実力を発揮し、全国大会に出場したことがある。

話したことがない彼女のことをこんなにもよく知っているなんて、気持ち悪いだろうか? それほどに、関わりがなくとも、学校で彼女の話題は絶えなかったのだ。

このエリート一家に生まれた牧野を見て、誰が彼女のことを「努力家」と呼ぼうか。

彼女は間違いなく、「天才」だった。

細胞に、栄華への道が組み込まれているのだ。

 そんな、将来を約束された女が自殺を図るなんて、にわかに信じられない話だ。そして、少し裏切られたような気分だった。

彼女は、クラスメイトに、「すごいね」と言われても、困ったように笑って「そんなこと無いよ」と返す謙虚な一面があった。だから、心の中でどこか、殺人鬼でクローンの僕にも、それなりに対応してくれると期待していたのだ。

だが、結果はあの通り。

『クローンに言われる筋合いなんて無いわ…』

 結局、彼女は猫を被っていただけなのだ。

 まあ、人間ってそんなものか。僕のことを「殺人鬼」と呼んでくる奴だって、きっと恋人がいて、三文恋愛小説には負けないくらいの、ロマンティックな愛を育んでいるに違いない。家族にだって、優しいに違いない。

 とは言え、なんだか、やるせないよな。それで世の中がまかり通っているんだから。

 指先に、ぴりっとした苛立ちが走る。乱暴に、濡れた皿を棚に叩きこむ。

 その時だった。

 カランッ! と、金属質の何かが落ちるような音が、扉の向こうから聞こえた。

 一瞬は聞き間違いかと思ったが、カラカラ…と、落ちたそれが転がる音。はっきりと、扉の前から聞こえる。

「……」

 嫌な予感がした僕は、唾を飲み込むと、玄関に歩み寄り、濡れた手のままドアノブを掴んだ。

 ひと思いに押して開ける。

 ゴツン…と、硬い感触が手に残り、それ以上進まなくなった。

「…あれ?」

 何となく、扉の隙間から顔を出す。

「…あ」

扉の前では、知らない男が額を押さえて蹲っていた。小太りで、黒いジャージを身に包んでいる。その足元には、赤いスプレー缶が落ちていた。

「何してるんですか?」

男が顔を上げた拍子に、彼の涙目と、僕の怪訝な目が合った。

 男は変な声をあげると、重々しい動きで立ち上がり、アルミ階段に向かって走り始めた。

「…あ、待てよ!」

 僕はサンダルを履くと、転げるように外に飛び出した。その拍子に、扉が壁に当たって跳ね返る。

横目で見た時、扉に赤いスプレーで、「殺人鬼」と書かれているのがわかった。

「あ…」

 文字を見た瞬間、耳の奥で、張り詰めた弦が切れるような、プツン…という音が響く。

「このやろ…」

口を一文字に結ぶと、サンダルで冷たいコンクリートを蹴り飛ばした。

勢いそのままに目の前の手すりを飛び越える。

後先のことは考えていなかった。

 ダンッ! と、勢いを殺しながら真下の駐車場に着地する。顔を上げると、階段を降り切った小太りの男が走ってくる。僕と目が合ったが、そう簡単には止まれない。突っ込んできた。

 若干痺れる右脚を軸に、上体の捻りを利用して一回転すると、強烈な回し蹴りを放った。

 サンダルを履いた踵が、男の頬を捉える…直前に止める。

 それなのに、男は「ふぎゃあ!」と猫が踏みつぶされたような声をあげると、躓き、二、三回転がった。

 男が動かなくなったのを見計らい、すかさず間を詰め、その胸倉を掴む。

 僕に睨まれた瞬間、男は悲鳴を上げた。

「た、助けて…」

「助けてじゃないだろ…、お前、何やってたんだ?」

「な、何も…」

「何もじゃないだろ、あの落書きはなんだよ」

 そう声を低くして言うと、男はバツが悪そうにそっぽを向いた。

「どうして、あんなことをした?」

「いや、だから、その…」

 酸欠を起こしたみたいに、喉の奥で言葉がつっかえる。

 男は泣きそうになりながら、絞り出した。

「お前、殺人鬼だろ?」

「違う」

 食い気味に首を横に振る。

「僕は、殺人鬼じゃない」

 男がどうしてあんなことをしたのかは、なんとなく想像がついた。僕を殺人鬼に見立て、糾弾し、己の正義の心を満たしたかったのだ。

「もうこんなこと、しないでください。悲しいので」

「いや…、でも」

 この期に及んで、男は自分のしたことを正当化しようとした。

「お前の存在は…、みんなに、恐怖を与えるから…」

「僕は誰も傷つけていない」

「殺したじゃないか。二十六人も」

「殺してない…」

 むきになって首を横に振る。

「殺した!」

 男も、むきになって声を荒げた。

 本当に不思議だ。どうしてこういう人たちは、話が通じないのだろう? 理解してくれなくてもいいから、せめて、話を聞いてほしい。

「殺人鬼が生きていて良いわけないだろ! さっさと死ねよ!」

 開き直った男は、そう言った。

「そうか…」

 僕は静かに頷いた。

「お前は…、そこまでして、僕を殺人鬼に仕立て上げたいわけだな…」

「仕立て上げたいもなにも、お前は…」

「だったら、お前を殺してやろうか?」

 そう言い放つと、男の胸倉から手を放し、ゆっくりと背筋を伸ばす。

 男を見下ろすと、親指で人差し指を折り、パキリ…と鳴らした。

 その乾いた音に、男の身が縮まるのがわかった。

「な、なにをするんだ!」

「自業自得だろう? 触らぬ神に祟りなし。犬にだって、ちょっかいかけなけりゃ吠えても来ないし、噛みついても来ない」

 拳を握ると、振り上げた。そして、男の脂ぎった顔を殴りつけようとした…その時だった。

『青葉君、ダメだよ』

 僕の耳の奥で、懐かしい声が響いた。

 筋が引きつるような感覚と共に、腕が動かなくなる。

 放たれた拳は、男の鼻先で止まった。

 硬直する僕。腰を抜かして動けなくなる男。

 見つめ合った二人の間に、謎の時間が流れた。

「こ、この、人殺しが!」

 負け犬の遠吠えのようにそう吐いた男は、横に転がって距離を取った。

 トタン屋根を支える鉄柱を掴むと、生まれたての子鹿のような脚のまま立ち上がる。そして、不時着する飛行機みたいに、ふらふらとしながら駐車場から出て行ってしまった。

 僕はというと、人を殴ろうとするポーズのまま固まり、生ぬるい風に吹かれるだけ。

「ああ、くそ…」

 泣きそうな声をあげ、その場にしゃがみ込む。

 アスファルトを殴りつけ、行き場を失った怒りをぶつけた。当然、間接に焼けるようないたみが走り、血が滲む。

「もう…」

 人の言葉が理解できないやつは、畜生と同じだよ。殴ればよかったんだ。殴って、わからせればよかったんだ。それなのに、できなかった。別に、おじけづいたわけじゃない。

 里親の、静江さんと約束したんだ。「人に暴力を振るわない」って。

 人を傷つけると、自分が殺人鬼だという証明になる。

 逆に人を守れば、自分が殺人鬼ではないという証明になる。

 全部、大好きな母さんとの、約束だった。

 僕は膝に顔を埋めた。

 今日も我慢した。沸き上がった怒りは全部、腹の底に仕舞い込んだよ。誰も、傷つかなかったよ。えらいだろう? 今日もいい子にしてただろう?

 でもちょっとだけ、疲れたよ。

「………」

 目に涙を滲ませたとき、どこからか、パシャッ! と、シャッターを切る音が聴こえた。

 振り返って見たが、人の気配はない。

 僕は項垂れながら立ち上がる。

 頬を伝う雫は、しょっぱかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る