その④
『何を絶望することがあるでしょうか?』
坂本記者は侮蔑を含んだ声で言った。
『今までと変わりませんよ』
コツコツ…と、彼女が履いたパンプスが地面を捉える音が聴こえる。
『あなたはずっと、幸田宗也の面影を持って生きてきたではありませんか』
カツン…カツン…と、足音が変わる。
まるで、アルミ階段を踏みしめているかのような音だった。
『幸田宗也と同じ顔、同じ声、同じ指の形…。それだけじゃない、彼は喧嘩をするときに、蹴り技をよく使ったそうじゃないですか。そして、あなたは私を脅すときに、脚を振り上げた。同級生に暴力をふるった際にも、脚を使っている…』
コンコン…と、ノックをするような、乾いた音。
『苦悩した時に頭皮を掻きむしる癖も、意外に涙もろい性格も…、全部、全部、幸田宗也の細胞から受け継いだもの…』
ガチャリ…と扉が開く音がした。
『はい? どちらさまで…?』
次の瞬間、スマホの向こうから聴こえたのは、坂本記者の声ではなかった。
『え…、あなたは…』
愛しい、間宮穂乃果のクローンの声だった。
その声を聞いた瞬間、全身が粟立ち、喉の奥で「あ…」という言葉が詰まった。
ダメだ…、逃げろ…。
声にならない懇願をした瞬間、バチンッ! 火花が散るような音に重なって、梨花の悲鳴が聞こえた。それから、倒れ込むような、鈍い音。
息を吐き、間を置いた坂本記者は、再び電話を耳に当てた。
『そして、間宮穂乃果のクローンと再び巡り合い、心を通わせたというのもまた、あなたではなく、幸田宗也の本能が求めたこと…。いいですか? あなたが今まで生きてきた日々に、あなたの意思は介在しないのです。全部、全部…、全部、全部』
引きつるような笑い。
『全部全部、全部全部、全部全部全部全部全部…、幸田宗也の意思によるものだ…』
そして坂本記者は、僕の心に止めを刺すこととなる言葉を言い放った。
『篠宮青葉なんて男は、この世に存在しません』
パキリ…と、踏みしめた石畳に亀裂が入るような気がした。
次の瞬間には、粉々に砕け散って、下半身の感覚が消え失せる。一瞬の気絶。我に返った時、目の血管が切れたのか、視界が真っ赤に染まっていた。
震える手はまるで血に濡れているようで、軋む関節は、刀を強く握りしめた後の感覚に似ていた。
「…うるさい」
今すぐ、この首を切って死んでしまいたい…という感情に抗いながら、僕は駄々をこねた子どものように首を横に振った。
「うるさい、うるさい、僕は、僕だ…、僕なんだよ…」
ガリガリ…と頭を掻きむしる。
「僕は、僕だ…、僕だ…、殺人鬼じゃない。僕を、殺人鬼と、呼ばないでよ…」
『あー、はいはい』
面倒くさそうに頷く坂本記者。それから、おどけたように言った。
『そんなことより、牧野梨花さんの心配はしなくてもよろしいのですか?』
「…………」
どうしてそんなことをしたのかはわからない。
記者に言われた時、僕はまるでゾンビに見つかった人のように、口を噤んでいた。
一秒、二秒、三秒と、時間が過ぎる。
耐えられなくなって、坂本記者が噴き出した。
『気づいているでしょう? 私は今、あなたのアパートにいます』
さっきの階段を上る音、扉をノックする音、そして、困惑する梨花の声がその証拠だった。
『そして、私の腕の中には、スタンガンで気絶させた、間宮穂乃果のクローンがいます』
「お前…、り、梨花を…」
梨花をどうするつもりだ?
たったそれだけの言葉が、風に吹かれた砂城のように消え失せる。
『気づいていたでしょう? なんで、真っ先に聞かなかったんですか?』
「…そ、それは…」
またしても言葉が途切れた僕に、坂本記者は笑った。
『そりゃそうですか。彼女の身を心配するということはつまり、間宮穂乃果の身を案じることと同じですからね。自分のことを殺人鬼ではないと否定するあなたには、酷なことだ…』
小さな声で「運んでください」と聞こえた。
そして、少し重々しい足音が遠ざかっていく。
そこで初めて、坂本記者が一人でいるのではないことに気づいた。
「…おい、お前…、一体…」
情報の海に飲まれて溺れかけていた肺に、冷たい空気が流れ込む。
少しだけ視界が明るくなり、思考が定まった瞬間、ある疑問が口を衝いて出た。
「お前、何者だ?」
『はて…』
坂本記者はわざとらしくとぼけた。
『私は、一介のジャーナリストです。ただただ、個人的な趣向から、二十年前の真実を明らかにしたかっただけです』
「なわけ、ないだろ…」
本能的に、彼女の言葉を否定していた。
目だけを動かし、本殿の前に倒れている、赤波夏帆の死体を見た。それから脳裏に、先日河川敷で発見された、尼崎翔太の姿を思い浮かべる。
「人殺してまで、なんで、お前は…、僕を、殺人鬼だと決めつける…」
『ああ、もう、じれったいですね』
坂本記者の声は、心底楽しそうなものだった。
『まだわからないんですか? まだ思い出さないんですか? わからないというのなら…、その細胞に刻まれた記憶に、訪ねてみればいいじゃないですか』
そう言う坂本記者の言葉の裏に、ジャーナリストとしての情熱ではない、どす黒い怨恨のようなものを垣間見た。
「幸田宗也の、記憶…?」
脳の表面に、痺れるような感覚が走り、思わずこめかみを抑えたその時、背後に誰かが立つような気配がした。
海から引っ張り上げられるような感覚と共に、我に返る。
首がねじ切れんばかりの勢いで振り返った時、そこには、能面のような顔をした男が二人立っていた。
いずれも四十代くらいで、中肉中背。ガラス玉のような瞳が、じっと僕を見つめている。
…神社の関係者、じゃないよな? ましてや、警察でもない。
「あの…、誰ですか?」
僕が聞くとともに、握っていたスマホの向こうで、坂本記者が鼻で笑った。
その笑い声に、一瞬、意識が逸れる。
その間隙を突いて、二人の男が、ゆらりと僕に近づいた。
「…あ」
反射的に身を引く。
男が、握っていた金属バッドを振り上げる。
「うそだろ…」
ガツンッ! と鈍い音と共に、こめかみに激痛が走る。
裂けた皮膚から、鮮血が散り、白く褪せた世界を染め上げた。
倒れ込んだ時の感覚はしなかった。
まるで空に放り出されたように、いや、底の無い沼に沈むように、意識を失うのだった。
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