その③

 参戦箱の裏にあったもの。それは、死んだ人間だった。

 いや、脈を確かめたわけじゃないから死んでいるのかどうかはわからないが、スカートの裾から覗く青い足は、明らかに死んだ人間のそれだった。

 心臓が爆発するように脈を打ち、空気で喉が擦り切れそうになるくらい、呼吸が逸った。

 腹の中の血が沸騰する感覚を覚えながらも、何とか、スマホを耳に当てる。

「誰の、死体、だよ」

『あら? 恩人なのに、わからないのですか?』

 電話の向こうの女が笑う。

『よく、見てくださいよ』

「…は?」

 白く褪せ始める視界の中、僕は腰を抜かしたまま、その死体に近づいた。

 賽銭箱の裏に回り、顔を覗き込む。

 それは、四十代くらいの女だった。顔は骸骨のようにこけ、着ていた服には何十か所も穴が空き、黒く染め上げられている。

 柔らかく吹いた風が、固まった黒い血を砂埃のように舞い上がらせた。

「…まさか」

 スマホを耳に当てなおす。

「こいつ、赤波、夏帆か?」

『おっ、よく覚えていましたね。やはり、産みの親だからか』

「なんで…?」

 この死体が、赤波夏帆だとわかったところで、「ああ! なるほど!」となるわけがなかった。

 なんでこの記者は、赤波夏帆の死体が置いてある場所を僕に指示したんだ?

『言ったでしょう? ちゃんと、裏付けをとってあるって…』

 次の瞬間、坂本記者の声が少し低くなった。

 艶っぽくなった…というか、怒りが混じったというか…。とにかく、悪意をこれでもかってくらいに詰め込んだ、どすのある声だった。

『あの記事に書かれたことは、すべて事実です。そして、それはすべて、出所した、尼崎翔太と、赤波夏帆から聞き出した情報であります。あなたが最愛の人を殺されたこと、その後、自殺をしたこと、クローンを作ることを計画して、静江さんと対立したこと、あなただけでなく、間宮穂乃果のクローンを作成することも企てたこと…。全部、全部、全部、思い出話に花を咲かせるように語ってくださいました』

「いやいやいやいや…」

 信じられるわけがなかった。

『鈍いですね』

 舌打ちが聴こえた。

 そして、電話の向こうの彼女が、満面の笑みを浮かべるような気がした。

『二人を殺したのは、私です』

「は?」

 困惑の声が、口を衝いて出た。

 吹きつける風が強くなり、神社を取り囲む竹林が激しく揺れた。

 舞い散った葉が僕の横を通り過ぎ、目の前の、赤波夏帆の腹に落ちる。

 殺した?

「なに、言ってるんだ、お前」

『あの二人を捕まえるのは簡単でしたよ。蜜に群がるカブトムシのように、あなたのアパートの近くに潜伏していましたからね。スタンガンを使って気絶をさせ、拘束しました。そして、幸田宗也がやったように、拷問をしながら、話を聞きだしました』

「何言ってんだよ、お前」

『幸田宗也が、あの凶行に及んだ動機なんてどうでもいい…。それよりも私は、尼崎翔太が間宮穂乃果のクローンを秘密裏に作成していたという事実に、驚き、震えましたね…』

 僕のセリフを無視して、坂本記者は続けた。

『取材の途中、私は尼崎翔太に、クローン作製の経緯について尋ねました。なぜクローンを作ったのか? と。だってそうでしょう? 普通の人間は考えつきませんよ。クローンを作ろうだなんて…。実際、尼崎翔太の計画に、篠宮静江は反対しています。そして、その意見の対立が、彼女が木漏れ日の烏から離れるきっかけとなっています…』

 …そうだ、静江さんは、尼崎らとは違う。

 僕を、幸田宗也じゃない…、「篠宮青葉」として育ててくれようとした。

『私の質問に対し、尼崎翔太と赤波夏帆は、こう答えました』

 坂本さんが息を吸う。

 僕は、つばを飲み込む。

『これは、救済だ…と』

「救済…?」

 全身に鳥肌が立つ。

「それは…、幸田宗也への、救済か?」

『違います。己への救済です』

 風が吹いている。赤波夏帆のスカートが、虚しく揺れている。

『あの二人にとって、幸田宗也は人生の一部だった。無くてはならないものだった。彼の喪失は、二人の命の喪失を表していた…。だから二人は、クローンを作製することにしたのですよ。自分たちがこれからも、生きていけるように。救われるべきは幸田宗也ではなく、幸田宗也を失った、自分たちだと…』

 そこまで言った坂本記者は、こほん…と咳ばらいをし、少し話を脱線させた。

『臓器移植の話は知っているでしょうか?』

「……知らん」

 彼女の言いたいことを察して、僕は嘘をついた。

 当然、記者には気づかれたようで、彼女は鼻で笑った。

『アメリカに住むある男が、拳銃自殺をしました。その男は、臓器ドナーに登録をしていて、彼の心臓は直ぐに、別の心臓病の男に移植されました。そして、心臓を移植された男は、間もなく、拳銃で自らのこめかみを撃ち抜いて自殺した…という話ですよ。言いたいことは、わかりますね?』

「くそ…」

 僕は悪態をつきながら頷いた。

「記憶の遺伝は、存在するってことだろ?」

『ええ。その通り。尼崎翔太は、その話を知っていました。つまり、生まれてくるクローンの子にも、記憶が遺伝されることを、信じていたのです』

 実際、あの週刊誌に書かれていたことをきっかけに、僕の細胞の記憶が呼び起された。そして、記事を読み進めるまでもなく、あの時のことを全部思い出してしまったよ。

全部、尼崎翔太の思惑通りってわけか?

『だけど、それだけでは、信頼に欠ける…』

 坂本記者の声に、一層笑みが混じった。

『細胞の記憶だけではない。彼は本能レベルでの確証が欲しかった…』

 息を吸い込み、思い切り言う。

『だから、間宮穂乃果のクローンも作成したのです!』

 その言葉が飛んでくるとわかり切っていたのに、まるでボディーブローを食らった時のような衝撃が、僕の胸に響いた。

 立っていられなくなり、ざらついた石畳に肩膝をつく。

 みるみる僕の精神が擦り切れていくのを想像したのか、坂本記者は高揚して続けた。

『尼崎翔太の病院に、不妊治療のために訪れた夫婦。二人は、尼崎翔太に、卵子と精子を提供しました。そして、彼は、二人の受精卵と、間宮穂乃果の体細胞が移植された受精卵を挿げ替え、着床させた。成長するかどうかは、ほとんど賭けだったようですが、無事にその母親の中で、間宮穂乃果は大きくなり、この世で産声を上げました…』

 そういうことか…。

 梨花が、優秀な家族のようになることができなかったのは、出来損ないとかじゃなくて、そもそも、作りが違ったからか…。

 違う遺伝子に、挿げ替えられたから…。

『間宮穂乃果が生まれてからは、尼崎翔太は、あの家族にほとんど干渉していないようですよ。その後すぐに逮捕されたから…というのもありますが、彼は信じていたのですよ。二人の、細胞の記憶を…』

 そこまで言った坂本記者は、耐えられなくなり、あはははっ! と声をあげた。

『そして、生前愛し合った二人は、クローンになってもなお、引力のように引き寄せられ、また、愛し合った。この事実に対し、尼崎翔太は言いました、これが、死者の復活だと』

 そして、僕の鼓膜を貫かんとする声量で、言い放った。

『あなたは、殺人鬼だ。幸田宗也なんだ!』

 ついに僕はスマホを落とし、石畳に額を擦りつけ、唸った。

 さっきからずっと胃酸が逆流を続け、滴り、噎せるような臭気を放っている。

 一筋の涙が石畳を濡らし、風は生々しい冷たさを持って、僕の背筋を舐めていった。

 本当に、滑稽な話だ。

 僕は、あの女の子と一緒にいることが、自分が殺人鬼ではないということの証明だと思っていた。あの女の子が抱いた傷に寄り添うことが、自分が自分であることの証となるのだと、思い込んでいた。

 例え、僕が幸田宗也に近しいものを持っていたとしても、彼女と笑い合い、抱き合い、一緒に眠ることが、それを洗い流してくれるような気がした。

 何かに変わっていけるのだと、信じていた。

 違ったんだ。

 結局僕は、間宮穂乃果さんのクローンと、本能的に引き寄せられ、自分が幸田宗也のクローンであるということを証明していただけ…。

 僕は、殺人鬼。

 二十六人を殺害した、極悪非道な、殺人鬼。

 生きていていいはずのない、化け物…。

「ああ、ああ…、ああ…」

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