その⑦

「分かり合えないってわけだ」

「そうだな、人間でもないクローンとなんかわかり合いたくないな」

「うん、わかった」

 ごめん。

 次の瞬間、僕は身を屈めて接近すると、彼の足を払った…が、失敗する。直前、彼は小さく跳んで躱したのだ。そして、プレゼントをもらった子供のようにはしゃいだ声をあげた。

「お! やるのか! 返り討ち…」

 言い終わらないうちに、僕の回し蹴りが三宅大河の顔面を捉えた。

 ゴキッ! と、彼の鼻の骨が折れる感触がつま先に残り、僕の股関節辺りにまで駆け上る。

 静江さんとの「誰にも暴力を振るわない」という約束とともに、振りぬいた。

 三宅は鼻血を噴出しながら吹き飛び、後ろの机に背中を打ち付けた。まだ意識はあったようで、「この殺人鬼!」と叫ぶ。その口を塞ぐように、身を反転させて、さらにもう一撃をくらわせた。今度は、歯が数本折れる音がした。

 遅れて、教室中に悲鳴が響き渡る。

 僕は気絶した三宅の胸ぐらを掴むと、近くに引き寄せ、その股間を蹴り上げた。反応はない。それでも、もう一発蹴り上げる。そして、真っ青な顔をした周りを見て言った。

「お前らが望んだんだ! お前らがこうなることを望んだんだ!」

 三宅の髪を掴むと、彼の頭を、思い切り窓に叩きつける。ガシャン! と、ガラスが割れ、彼の血が飛び散った。それだけじゃ終わらない。首根っこを掴み後ろに倒すと、その腹を踏みつけた。顔面を真っ赤に染めた彼は唸ると、昼に食べたであろう弁当を吐き出した。

「お前らが! 僕を『殺人鬼』と呼んだ! お望み通り! なってやるよ! 文句ないだろ!」

 何度も、何度も、何度も、三宅の腹を蹴りつける。

「ほら! お前らの大好きな殺人鬼だ!」

 喉が切れる勢いで叫んだ瞬間、背後から誰かが迫るのに気づいた。

 すかさず、三宅の腹を蹴って跳ぶと、身を捩って脚を振る。見事、僕を押さえつけようとしていた男子の顔面を捉えた。男子は鼻血を噴き出しながら吹き飛び、床に背中を打ち付けた。その上に馬乗りになり、もう三発殴った。

「おら! 殺人鬼にしたいんだろ! さっさとかかってこいよ!」

 全員返り討ちにする。全員殺してやる。

 だが、それ以上襲い掛かってくる者はいなかった。皆、変貌した僕を見て、足が竦んでいた。

「なんだよ…」

 やけくそで、馬乗りになっていた男子の鼻を殴った。骨が折れる音がした。

「ふざけんなよ! 人が大人しくしておけば調子に乗りやがって! いざ暴れたらだんまりか! ふざけんなよ!」

 僕が教室で暴れていることを聞きつけた先生が、屈強な体育の先生らを引き連れて教室に飛び込んできた。

「何をしている!」

 そして、立ちつくしている僕を、床に取り押さえた。

「ついに正体表しやがったな! この殺人鬼が!」

 ギリギリ…と胸骨を圧迫される。

「ああ! 殺人鬼だよ! この野郎!」

 息が詰まりそうになりながら、僕はそう叫んだ。

「てめえらがそうさせたんだろうが!」

 そして僕は、四肢を掴まれ、生徒指導室へと連行されることとなった。

 もう終わりだと思った。僕は警察を呼ばれて、豚箱に入れられるのだ。

 そして、生徒指導室に、校長先生が入ってきた。

 先生は、「危険です!」と言う教員らに、外に出ているよう指示をすると、僕と二人きり、向かい合って座った。

「今回の件…、きっと君は悪くないのだろう」

 校長先生は、静かにそう言った。

「生徒らから話を聞いたよ。三宅君が、君を挑発したって。それで、君は怒ったわけだ」

 なんだ、わかってくれているじゃないか。

「だけど、君は、獣と同じなんだよ」

 あ? このジジイ何言っているんだ?

「山に生きる獣に罪はない、だけど、町に降りてきたら、それは殺さないとだめなんだ」

「僕が獣?」

 校長室に、僕の苛立った声が響いた。

「違うね、僕は人間だ」

「いいや、君はクローンだろう?」

 それを、教育を尊ぶ者が言うのか…。

「これは言うべきか迷っていたんだが…、ずっと、保護者の方から苦情が寄せられていたんだ。『殺人鬼と同じクラスなんて危険すぎる』『クローンなんてものと一緒にいるのは、うちの子供に精神的ダメージが大きい…』、そして、『早々に退学させてくれ』と」

「そう、ですか」

「もちろん、断ったよ。私も、君がただ殺人鬼と同じ姿をしている人間で、まともな生活を送ろうとしているってわかっていた。その気持ちを尊重して、君をこの高校に招いた。だけど…」

 校長先生はぎゅっと目を閉じ、絞り出した。

「分かり合えないって、わかっただろう?」

「………」

「これはね、逃げではない。戦略的撤退だ。君の心がこれ以上傷つかないためなんだ」

 校長の皺だらけの手が、僕の肩に触れる。どうしようもなく、震えていた。

「君が怪我させた男子の親御さんには、私が説得をする。だから…、もう」

「…はい」

「学校に来ないでくれ」

 その日、僕は退学になった。

あれだけ頑張って勉強したのに、あれだけ、静江さんに褒められたのに、退学になった。

 部屋を出ると、廊下に僕の荷物が置いてあった。なるほど、教室に取りに戻ることもさせてくれないらしい。

 鞄を持つと、そのまま靴箱に向かった。その途中、見知らぬ女子生徒とすれ違う。彼女はまるで化け物を見たかのように、「ひっ」とひきつった声を洩らしていた。

 靴を履きかけたとき、図書室で借りた小説を返していないことを思い出した。鞄の中に手を入れると…、あった。

分厚い本を掴んだ僕は、外に出て、校舎をぐるっと回り、職員室の前に立った。本を握ったまま大きく振りかぶると、投げる。それは、重々しい軌道で飛んでいき、職員室の薄汚れたガラスに直撃した。

 ガシャンッ! とガラスが散り散りになる。若い女性教員の悲鳴が聞こえた。

 流石二十六人を殺した幸田宗也の肉体だ。肩の力、腕力、そして制球力、すべてが申し分ない。「殺人鬼」という肩書さえなければ、この高校で投手として、素晴らしい活躍を見せていたに違いない。まあ、この学校に野球部無いけど。

「誰だ!」

 面識のない先生が顔を出した。僕と目が合う。怒鳴られるのかと思いきや、先生は「あっ!」と顔をひきつらせた。襲撃されていると思ったのか、震えた声で言う。

「な、な、何を…、しているんだ」

「本、返しておいてください」

 僕はそう言って微笑むと、踵を返した。

 ぱたぱたと走って、校門を出る。振り返る。校舎に取り付けられた時計はちょうど十三時を指していた。

 そう言えば、昼飯を食う暇が無かったな。まあ、食欲無いけど。

「………」

 まだ頬がチリチリと痛む。それをかき消すように三歩進む。そして、立ち止まる。

 ポケットに入れていたスマホが、震えたのだ。

「……」

 取り出すと、牧野梨花からだった。

 ああ…、そう言えば、今日は彼女の姿を見ていない。昨日のいざこざで、学校で僕と会うのが嫌だったのだろうか? それとも…。

耳に当てると、消え入るような声が聞こえた。

『ねえ…、今、来られる?』

「え…?」

『ごめん…、早く、来て…』

 泣きそうな声。いや、もう泣いているのか?

「何処にいるんだ?」

『○○橋の下…』

「ごめん…」

僕はスマホを耳に当てたまま、首を横に振った。

「僕に、君を助けるような資格はない」

『お願い…、動けないの…』

 掠れた声が、僕の心をかき乱す。

『昨日のこと…、怒ってないよ…。ちょっと、怖かっただけだから…』

「…わかったよ」

 退学という、人生最悪の節目の時でも、僕は牧野のことを放っておくわけにはいかなかった。

 スニーカーの靴ひもを締めると、もう必要ない鞄を放り出して飛び出した。通話は切らず、スマホを持ったまま走る。信号のない道路を突っ切って裏路地に出ると、犬の散歩をしているおばさんを横切ってさらに足を速めた。

 海面を藻掻くように走り、そして、牧野が指定した橋に辿り着いた。

 呼吸を整える暇もなく、シロツメクサが生い茂った斜面を下りた。川の臭気に顔をしかめながら橋の下に入る。すべてが白く褪せる真夏の昼間でも、そこは薄暗く、ひんやりとしていた。

 牧野は、コンクリートの壁に引っ付いて、蹲っていた。

「牧野…」

「ああ…、来てくれたんだ…」

 弱弱しい声とともに、牧野が顔を上げる。薄暗い中でも、真っ青になっているのがわかった。

 それだけじゃない。牧野の制服はぐっちょりと濡れ、肌に張り付き、彼女の体温を食らっていた。おそらく、川に飛び込んだのだ。

 捨てられた子猫のように震えた牧野は、僕を見て無理に笑った。

「だめかと思った…。ありがとう」

 通話を切り、スマホをポケットに突っ込むと、牧野の隣に腰を掛ける。

「何かあった?」

「死にたくなった」

濡れた前髪をかき上げて、力なく笑った。

「学校に行こうとしたら…、急に死にたくなって、気が付くと、川に飛び込んでたの。馬鹿みたいだね。水泳やってたから、溺れるわけがないのに…」

「どうしてまた…」

 そう聞くと、牧野は濡れたスカートに顔を埋めた。そして、肩を震わせ、静かに泣いた。

 僕は、彼女の震える肩に触れた。

「とりあえず、戻ろう。シャワーを貸すから。このままじゃ、風邪を引くよ」

「うん…、ごめん、動けない」

「わかった。じゃあ、立てるようになるまで待つよ」

 牧野は膝に顔を埋めたまま首を横に振った。

「おんぶして…」

 それを聞いた僕は、何も言わず、牧野に背を向けてしゃがみ込んだ。

 牧野は何も言わず、僕の背中にしがみつく。

 僕は牧野の華奢な身体をおぶって立ち上がった。夏だというのに、彼女の身体はプラスチックの人形のように冷えていた。

 牧野は僕の肩に顔を埋めると、震える声で言った。

「死にたい」

「うん…、じゃあ、僕が、殺してやろうか?」

 そんな言葉が零れ落ち、足元で砕けた。

「なんたって、僕は殺人鬼だからさ」

 そう笑いながら言うと、牧野は少し落ち着きを取り戻した声で言った。

「急に…、どうしたの…?」

「退学になった!」

 青空を仰ぐと、ぽろっと、目の端から涙がこぼれた。

「正義面した男子の鼻の骨と、歯を折ってやった。股間も蹴っておいた。綺麗に潰れているといいんだけどな」

「それで…退学になったの?」

「驚いているのか? お前らが前から言っていたじゃないか。『お前は殺人鬼だ』『お前は幸田宗也』だって。その通りにしただけなんだよ。殺されなかっただけありがたいと思え」

 彼女を背負ったまま、何もない場所に向かって蹴りを放つ。空を切る、シュッ! とした音が響いた。そして、漫画に登場する敵キャラみたいに、「わっはっは!」と笑った。

「いやあ、すっきりしたね! あいつ、威勢だけは良いんだよ。簡単に蹴り飛ばされやがった。あいつの、血でぐちゃぐちゃになった顔、面白かったなあ!」

 ため息をつく。

「牧野も、あいつみたいになりたくなかったら、僕の機嫌を損ねないことだな。なんたって僕は殺人鬼なんだ。その気になれば、お前の命も、あのクラスの馬鹿どもの命も、簡単に刎ねることだってできるんだよ」

「それ、本気で言っている…?」

 牧野は機械のような声で囁いた。

「本気で、自分が殺人鬼だと、思っているの…?」

「思っているに、決まっているだろ…」

 そう言った瞬間、声が震えた。頭の奥で、カチン…とライターのハンマーを下したような音が響いたかと思うと、喉の奥が熱くなった。無理に言葉を絞り出そうとすると、下唇までもが震え始め、視界が歪むのがわかった。

 身体を支えられなくなり、立ち止まる。重い息を吐く。

「僕は…、殺人鬼じゃない…」

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