第8話「殺人鬼と被害者と少年と」

「ずっと、夢を見るのです」

 坂本さんの声で、僕は目を覚ました。

「あの時の夢です。私の母親が、幸田宗也の手によって惨殺される夢」

 顔を上げ、なんとなく身体を動かそうとしたとき、腕の中に硬い感触があった。

「足の腱を斬られ、動きを封じられ、必死の命乞いも空しく、後頭部を割られて絶命する母の夢。私はその下にいて、母から流れ出す血を一身に浴びている…」

 見ると、手首にロープが巻きつけられ、背後にある重々しいソファに繋がれていた。

 床はリノリウム。といっても、もう随分と手入れがされていないのか、砂埃が降り積もって、その輝きは失われていた。

「それから、幸田宗也が歩いてきて、母の死体を足蹴にする…」

 一瞬、視界にテレビのノイズのようなものが走った。

 心臓が逸るのを感じながら見渡すと、そこは、どこかの病院の待合室だった。

 全体的に黄ばんでいて、所々窓ガラスが割れている。壁に貼られたカレンダーは二十年前の四月からめくられておらず、受付のカウンターの下には、誰かの保険証と診察券が折り重なって落ちていた。

 酸っぱいような、苦いような、そんな悪臭が、僕の鼻を突いた。

「あ…、ああ」

 この場所は…。

「私を見下ろした幸田宗也は、何かを言った…。でも、私はそれを聞き取る余裕もなく、恐怖していた…」

 カツン! と、パンプスが床を踏みしめ、僕の前を闊歩していた坂本さんが振り返る。

 結んでいた髪をほどき、ポロシャツのボタンを二つ外し、タイトスカートの裾をあげ、しがらみから解放されたような恰好をした彼女を、僕を見て、にやりと笑った。

 彼女の傍には、気を失った梨花が倒れている。

「もう、おわかりですね」

 僕は恐る恐る視線を外し、入り口に続く廊下を見た。

 床の上に、完全に拭いきれていない血の跡がある。その上に、走馬灯のように、倒れた女性の姿が浮かび上がった。

 …そうだ、幸田宗也はあの時、ある女を殺した。

 その女は、我が子を守ろうとしていて…。

 彼はその子を殺そうとして…。

 そして、静江さんに引き留められた。

「お前…」

 あの時彼は、一人、殺し損ねていた。

「まさか…」

 開ききった瞳孔のまま、坂本さんの方を振り返る。

「やっと思い出してくれましたか」

 坂本さんは、やれやれ…と言いたげに肩を竦めた。

「そうです。私はあの時、幸田宗也に殺された女の娘です。すっかり、あなたより背が高くなってしまいましたね」

「…うそ、だろ」

 坂本さんが、あの時、幸田宗也が殺し損ねた女の子?

 その事実を胸の奥で反芻させたとき、今まで不鮮明に僕の周りを漂っていた殺意が、はっきりと輪郭を結び、ナイフのような鋭さをもって喉元に突き立つような感覚がした。

 体温が二度下がり、全身の毛が逆立つ。

 まるで、幽霊に首筋を舐められたかのような、生々しい恐怖。

「…そうか」

 ぽつりと呟く。

 次の瞬間、坂本さんは口を一文字に結ぶと、三歩歩み寄り、僕の顎を蹴り上げた。

 ガツンッ! と歯と歯がぶつかり、視界に星々が煌めく。

「くっそ…」

 舌を噛んだようで、項垂れた瞬間、血と唾液が混ざったものが床に滴った。

「お前…、何しやがる」

「さあ、あの日の決着と行きましょう。幸田宗也」

 沸き上がる興奮を抑えるように、坂本さんは言った。

「私はずっと、お前に復讐することを誓って生きてきたんだ。あの日、無残に殺された、罪のない母さんの敵を討つために…!」

 母の復讐か。

 彼女が、あの女の娘だと知らされた時点で、動機はそんなところだろうと察しがついた。

 僕は舌が痺れるのを覚えながら、首を横に振った。

「僕は…、幸田宗也じゃない」

「いいや、あなたは幸田宗也だ」

 無機質な僕の言葉は、坂本さんには届かない。

「もう気づいているでしょう? ここがどこであるかを…」

 彼女は肩で息をしながら、両腕を広げ、辺りを見渡すよう促してきた。

 僕は坂本さんの方を見つめたまま、頷く。

「幸田宗也が、凶行に及んだ、あの病院だ…」

「そのとおりです」

 頷いた坂本さんは、頬を伝う汗を拭った。

「あの事件の後、悪評が付いて回ったおかげで、ここは閉院となりました。村の過疎化も相まって、訪れる者はもういない。あなたに復讐するのなら、ここがぴったりだと思いましてね。あなたのことを恨んでいる人間は沢山いるので、協力してもらいました」

 ああ…、あの神社で僕を殴って気絶させた男も、そのうちの一人か…。

 僕は鼻で笑った。

「用意周到…と言うべきか、回りくどいと言うべきか…。闇討ちでもすればよかっただろ」

「これもすべて、私を救うためですから」

 坂本さんは嬉しそうに頷き、スーツのジャケットの内ポケットに手を入れた。

 見せびらかすようにして取り出したのは、鞘に納められたサバイバルナイフ。

「確かに、闇討ちの方があなたを殺すには確実だ。ですが、それだと、私の心が救われないのですよ。あなたも、理解できるんじゃないですか?」

 悲しいことに、彼女の言いたいことがなんとなくわかった。

「尼崎翔太と同じですよ。彼は、ただクローンを作成したのではない。幸田宗也そのものの復活を願っていた…。私もそうです。ただのクローンを殺したところで、目覚めが悪いだけですからね。あなたには、幸田宗也であってほしかった…」

 僕にその気は全くないのだがな。

「確証が欲しかったのです」

「…確証、ね」

 それはつまり、僕が、幸田宗也らしい行動をとることを指す。

 具体的に言えば、生前の記憶を持ち、そして、生前愛し合った女性と、再び惹かれ合うこと。

 この人は、僕を「幸田宗也」と決めつけた上で、復讐を実行したかったのだ。

「そして、その確証を目の当たりにした私は、あなたを殺すことを決心しました」

 鞘から、サバイバルナイフを抜く。

 窓から差し込む光を反射して、空中に、青白い軌跡が描かれた。

「私は、今日、救われるのだと…」

「…本当に、悪かったと、思ってるよ…」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る