その④
「ですが、目を通す暇なんてありませんね。あなたたちは、今から死ぬのですから」
今から死ぬ。
つまり、殺してやる…という意味を含んだ言葉に、僕の背中に、焼けるような熱が駆けた。
獣に転じてしまうかのような、どす黒い激情を必死に抑え、人間の言葉を結ぶ。
「…お前、いい加減にしろよ?」
「いいじゃありませんか。さっきのインタビュー見ていたんでしょう? あの二人は、クローンなんか要らないと言っているのです。間宮さんに、この世界で生きていく場所なんて…」
「お前…、黙れよ」
言葉を遮る。
ちらっと、横目で梨花の方を見たが、彼女は変わらず、床に伏し、腹を抱えて丸くなっていた。そして、小刻みに肩を震わせている。その様子はまるで、自分がクローンだったこと、そして、両親からいよいよ決別を言い渡されたことによる衝撃を、受け入れることができていないように見えた。
そりゃそうか。
十七年も罵詈雑言を浴びてきた僕が、こんなにも胸が痛いんだ。今しがた自分がクローンであることを知らされた彼女が、耐えられるはずが無かった。
「梨花にだって、僕にだって、生きる価値はある。生きたいって、思ってる」
「それは、幸田宗也と間宮穂乃果のように、手を繋いで生きていくためですか?」
坂本さんは至って冷静に言葉を返した。
「素晴らしい感動ストーリーじゃないですか。前世じゃ一緒になることができなかった二人が、今度こそ生きていくなんて…。ああ、幸田宗也と間宮穂乃果の絆に涙が止まりません」
と、乾いた瞳で言い切る。
「いいですよ。いつまでも乳繰り合っていてください…」
そう言いかけた瞬間、坂本さんの表情が固まった。
三秒ほど考えた彼女は、ため息をつくとともに、再びナイフを握りなおし、足元に落ちていた小石を蹴り飛ばした。
乾いた音を立てて飛んで行った小石が、壁に当たって小さく跳ねる。その瞬間、待合室に張り詰めていた緊張が裂けて、また別の何かが溢れだしたような気がした。
「とまあ、自分が殺人鬼だとか、殺人鬼じゃないだとか、助けてくれとか、殺してやるとか…、そんなくだらない押し問答はここまでにしましょう。どうせ、わかりあうことなんてできないのですから」
彼女の顔から、笑みが消える。
このまま切りかかってくるのか…? と身構えたが、彼女は一度踵を返し、入り口の方へと歩いて行った。
「…おい、どこに行く」
彼女の視界から外れただけで、呼吸が一気に楽になる。
しかし、息を吸い込んだのも束の間、ドスン! と、何か重々しいものが倒れる音がした。それから、液体が流れだすような音。いずれも、僕に一抹の不安を抱かせる。
カウンターの陰から顔を出した坂本さんは、にやりと笑った。
その冷たい笑みと共に、噎せるような刺激が喉に広がる。
次の瞬間、入り口から受付、そして、待合室にかけて、炎が沸き上がった。
「…あ!」
音はないというのに、轟轟と揺らめく炎。
生ぬるい風がこちらに吹き寄せた時、全身に鳥肌が立った。
「…お前!」
「私はもう、引き返すつもりはないので」
何かの燃料を撒き、入り口を炎の壁で塞いだ坂本さんは、今度こそ、その殺意を僕に向けた。
「さあ、今から殺します」
「ふざけんなよ! お前!」
喉が切れんばかりの勢いで叫んだ。
耳の奥でずっと、危険信号が鳴り響いている。
「マジでふざけんな! ほんとふざけんな! 迷惑千万なんだよ! 自分の心救うために、僕を殺人鬼に仕立て上げて! ふざけんなよ! てめえの我儘に付き合ってられるほど、余裕ねえんだよ! ふざけんなよ!」
炎の勢いは一瞬にして勢いを強め、受付から一番近くにあったソファに燃え移った。
ボンッ! と爆発するような音と共に、熱風が押し寄せ、嫌な臭いが鼻を掠める。
炎から一番近くにいる彼女は、己の黒髪が揺らめくのもお構いなしで、笑っていた。
「良いですね。そうやって、感情を高ぶらせてください。その方が殺人鬼らしい。その方が、殺しがいがある」
「ふざけんなよ! ここまでコケにされて、冷静でいられるかよ!」
くそ…、炎の広がりが早い。喉が焼ける。汗が噴き出す。気が遠くなる。
「殺されてたまるか! 殺されてたまるか!」
どうする? どうする? どうやって、ここから逃げる? 死にたくない。死にたくない。殺されたくない。生きていたい…。
「ああ…、ああ、ああ…」
目を動かして見ると、梨花は相変わらず、床に額を擦りつけ、小刻みに震えていた。
絶望しているんだ。炎が迫って来ても、動くことが億劫になるくらいに。
「梨花! 動け! 動け! ここから逃げろ!」
ロープで繋がれた僕は、動くことができない。
ならばせめて、梨花だけでも…と思い、叫んだが、彼女は動かなかった。
坂本さんが鼻で笑う。
「絶望しているのですね。可哀そうに…」
「てめえが仕向けたんだろうが!」
「どうかここで、灰になってください」
僕の方を向きなおった坂本さん。
次の瞬間、下唇を舐め、こんな言葉を放った。
「地獄の篠宮静江に、よろしく頼みますよ」
「ああ?」
僕は狂犬のような勢いで坂本さんに向かっていった。だが当然、ロープが強く張って、阻まれる。
熱くなり始めた床に尻もちをつきながらも、必死に声を荒げた。
「てめえ! 今は静江さんは関係ないだろうが!」
「関係ありますよ。あなたを、さらに、殺人鬼に落とすためなので」
「もうそういうのうんざりなんだよ! いい加減…」
「私が殺したので」
「だま…れ…」
坂本さんの言葉を聞いた瞬間、風船の空気が抜けるみたいに、言葉の輪郭が揺らいだ。
床を這った炎が、僕の膝を掠める。熱いはずなのに、水風呂に飛び込んだみたいに、細胞、神経、筋肉、心臓…身体中のあちこちの何かが、滅茶苦茶に収縮した気がした。
そして、停止した脳みそに、言葉が降ってくる。
「篠宮静江を殺したのは、私なので」
「は?」
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