その⑤

「よお、久しぶり。幸田」

 鼻に包帯。下品に開いた口に前歯は無い。頬にも青黒い痣のようなものが残っている。僕が退学になるきっかけになった、三宅大河だった。

 どきっと心臓が高鳴る。後ずさろうとすると、退路を塞ぐようにして、他の男子たちが立った。

 彼はプラスチックのカップを片手に、僕に笑いかけた。

「なんだよ、その顔、久しぶりに会ったんだから、楽しくやろうぜ」

「悪いけど、一緒には回れないよ。牧野と一緒だから」

「そう、それ!」

三宅は、小学生のような声をあげ、僕の鼻先を指した。

「なんだよ、幸田お前、いつから牧野さんと仲良くなったんだよ」

 牧野の方を見る。

「牧野さん、こいつに脅されてるの?」

「ううん」

 牧野ははっきりと首を横に振った。

 一層、僕と牧野の関係が分からなくなった三宅大河は、少し身じろぎをした。

「な、なんだよ。なんで、牧野さんみたいな優等生が、こんな奴と一緒にいるんだよ」

「どうでもいいだろ」

 僕は三宅の肩を掴み、ぐっと押しのけた。

「僕は学校を辞めたんだから、関わってくるなよ。もう鼻の骨折られたくないだろ」

「あ、そうだ、それだよ」

 その瞬間、三宅大河が静かに放った拳が、僕の脇腹にめり込んだ。

 悶絶するほどの痛みではなかったが、思わず身を引く。

「…何をする」

「だから、学校辞めたんだろ? だったら、校則も何も関係ないよな」

「いや、法律があるんだけど」

「これで、思う存分、お前に仕返しができるってわけだ」

 僕のツッコミを無視して、三宅大河はキスをしそうな勢いで、身を寄せてきた。

 殴られたくない。そして殴りたくない僕は、さっと下がる。だが、彼の取り巻きが僕を囲み、退路を塞いだ。

「おら、逃げんなよ殺人鬼。今更ビビってんのか?」

「いや、こんな人だかりで僕をのしてみろよ。一発で問題になるぞ…」

「だから、静かな場所に行こうって提案しているんだよ」

 三宅大河が手を伸ばし、僕の腕を掴もうとした。

「ああ、もう…」

 どうする? 牧野に迷惑をかけるわけにもいかないし…、おとなしく連れていかれるか?

「あの…」

 三宅が僕の腕を掴んだ時、牧野の、鈴を鳴らすような声が聴こえた。

「あの、三宅君、やめてくれない? 篠宮くん、嫌がっているんだけど」

 力が緩んだので、僕は三宅の手を払った。

 まさか、優等生の牧野に言われると思っていなかったのだろう。三宅大河らは信じられないというような顔で振り返った。

「ええと、牧野さん? どうしたの?」

「どうしたのじゃないよ。青葉くんから離れてよ」

「いや、牧野さんもわかるでしょ。こいつ、殺人鬼なんだよ?」

「篠宮くんは、殺人鬼じゃないよ」

きっぱりとそう言った。

「もしそうだとしても、どうして、殴る理由になるの?」

「だから、こいつがよそ様に迷惑にならないように、オレが懲らしめるんだよ」

「それは、三宅君がやらないとダメなこと?」

「いや…それは」

彼は何も言い返せなくなった。

 畳みかけるように、梨花は彼が持っていたプラスチックカップを指した。

「それ、何?」

「これは…」

 彼がカップを持ち上げると、中に入っていた、泡立つ琥珀色の液体が、とぷん…と揺れた。

「それ、お酒じゃないの?」

「あ、ああ、そうだよ」

「お酒は飲んだらダメだよ。未成年だから」

「うるさいな! そんなのわかっているよ!」バツが悪くなった三宅大河は、周りの狂騒をかき消すように語気を強めた。「なんだよ、先生に言いつけるか!」

「言いつけられたくなかったら私に頂戴。捨てるから」

「くそ優等生が!」

 流石に学校に言われるのは嫌なのだろう。彼は投げつけるように、カップを梨花に渡した。

 牧野は、にこっと笑い、「ありがとう」と言った。それから、カップの上蓋を外した。

「えい!」

 次の瞬間、苛立ちで目を見開いていた三宅大河の顔面に目掛けて、中の液体をぶっかける。

 アルコールが彼の眼球に染みた途端、楽しい祭りに、断末魔のような悲鳴が響き渡った。

 三宅大河は「いてえ!」と叫び、石畳の上に膝を突いた。慌てて、取り巻きが彼に駆け寄る。

 その一瞬の隙に、牧野が僕の手を掴んで走り出した。

「牧野?」

「ほら、逃げよう」

 雑踏を縫うように進み、鳥居を出ると、そのまま入り組んだ裏路地へと駆けこむ。その時にはもう、祭りの狂騒も、三宅らの怒号も聞こえなくなっていた。

 牧野は額に汗を浮かべ、木枯らしのような息を立てながら、楽しそうに笑った。

「やったね…」

「やったねって、お前…」

「アルコールって、目に染みると痛いんだよ」

「いや、それは知っているんだけど」

 大した走ったつもりはなかったが、心臓がバクバクと脈を打っている。体温も一度上がり、身体が燃えるように熱かった。肺に血がめぐり、喉に鉄の味が込み上げている。

「お前…、そんなことしたら、学校で」

「ううん、どうでもいいの」

 牧野は心底どうでもいいように首を横に振った。

「証明したかったんだ」

 近くに川があるのか、吹きつけた風が生臭さを運んでくる。

「私が『天才』じゃなくて…」

 僕の胸を小突く。

「君が、『殺人鬼』じゃないってことを」

 その時だった。

 ドオオンッ! と、頭上で、腹の底に響くような音がした。

 はっとして夜空を見上げると、そこには、赤い花が咲いていた。

 彼岸花の雄蕊のような光が尾を引きながら落ちてくる。それが風にさらわれて消えるよりも先に、二発、三発と、白い光が打ち上げられた。雨の日に水たまりに現れる波紋のように、赤、青、緑、橙…、色とりどりの光の花が、折り重なって炸裂する。暗幕に広がる星々を押しのけて、煌々と輝いていた。

 僕はしゃべるのを忘れて、咲き誇る花火に目を奪われた。

「綺麗だね。近くで見るのは初めてだよ」

 牧野が言った。

「すごく、幸せ」

 その言葉に、パキン…と、頭の中で、ガラスを踏みつけるような音がした。喉の奥に詰まっていたものが、するん…と抜け、腹の底で熱となって消える。丸一日泣いた後のように、世界が明るくなり、地面の輪郭がはっきりと線を結んだ。

 僕の姿を覆っていた『幸田宗也』という名前が、風に吹かれた砂城のように崩れていくのが分かった。

「ああ…、うん、そうだよな」

 唇が震える。

それを抑えるように、梨花が身を乗り出して、自分の唇を僕の唇に押し当てていた。

柔らかい。温かい。良い匂い。

 その行為の真意に気づくよりも先に、唇が離れる。

 何か話そうと息を吸い込むと、遮るように彼女が笑った。

「じゃあ、帰ろうか」

「あ、うん」

 今もなお咲き続ける光に背を向け、僕たちは歩き出す。

 アパートへ戻るまでの間、梨花はずっとしゃべっていた。たこ焼きが美味しかった。一つタコが入っていないものがあった。射撃はもう少し銃の威力を強めた方がいい。かき氷は練乳よりソフトクリームと一緒に食べた方が美味しいのかもしれない。あの男子のことはずっと嫌いだった。だって、ずっとうるさいから。酒なんて二十歳を過ぎてから飲めばいい。何をかっこつけているのか。アルコールの怖さを早めに知れてよかった。

 ずっと、ずっとしゃべっていた。

時には、髪を鬱陶しそうに撫でたり、黒いアスファルトをカツンコツンと踏み鳴らしたり、塀の上で眠っている猫にちょっかいを掛けたり。

 僕ははしゃぐ梨花の姿を半歩後ろから見て、ただ笑った。

 眠れば悲しいことを忘れるように、笑うことで、さっきの「キス」の意味をかき消していくようだった。

 ああ、幸せだなあ…。

 そう思う一方、心の奥に、何かが引っかかっていた。

それはまるで、釣り針のようで、引き抜こうとすれば、返しが突き刺さって僕を傷つける。本能的に、絶対に触れてはいけないものという認識があった。

 何だろう? こうやって、梨花との日々を噛み締めれば噛み締めるほど、その心に刺さった針が、一ミリ動くようだった。その度に、ちくっと痛む。悲しみが顔を出す。

 なんだろう、この感覚は、何だろう?

 ピリピリ…チクチク…。

 何かを、忘れている気がする。

 パチパチ…ピキピキ…。

 何かを…。

「どうしたの? 青葉くん?」

 梨花が心配そうに僕の顔を覗き込む。

 その顔に重なるようにして、誰かの顔が、僕の脳裏を過った。

 僕は誰にも聞こえない悲鳴を上げると、半歩下がる。

 梨花はきょとんとして、首を傾げた。

「本当に、大丈夫? 疲れちゃった?」

 僕は慌てて笑った。

「大丈夫、何でもないよ」

「そっか」

 また、歩き始める。

 その一週間後、隣町の河川敷にて、惨殺された尼崎翔太の死体が発見されたのだった。

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