その③
その瞬間、悲鳴にも似た声が、待合室に反響した。
振り返ると、入り口のガラス戸を開けながら、息を切らした静江が入ってくるのが見えた。
受付を抜けた静江は、血で滑り、盛大に転びながら、待合室に飛び込んでくる。身体半分を赤く染め、顔を上げると、落ちたものを掴むような勢いで叫んだ。
「何やってんの! おにいちゃん!」
「…静江」
僕は刀を下ろす。
静江は唾を飲み込むと、柱を支えにして立ち上がる。セーラー服のスカートから覗く細脚は、産まれたての小鹿のように震えていた。
「…おにいちゃん、なにを、やってるの…?」
「静江、お前は家に帰れ。ここにいたら、危ないぞ…」
「なんで、殺したの?」
「ああ、これのことか…」
足元に転がった死体を、まるで雑草を踏み分けるみたいに、爪先で突く。
「ほんとうに、ごめんなあ」
静江のこれからの人生に思いを馳せると、やるせなさが胸に沸き上がった。
「兄ちゃん、もうお前と、一緒に生きていけないや…。翔太にいとも、夏帆とも…」
天井を仰ぐ。
「いけないことをしたのはわかってる。ちゃんと、わかってるよ」
「…じゃあ」
「ここで死んでいる人たちにはきっと、家族がいる。恋人がいる。愛おしい人がいる。大切な人がいる。夢がある。生きがいがある。幸せがある。僕は、それを奪ったんだ。許されないことをしたんだって、わかってる…」
脳裏に浮かぶのは、僕が愛した女性の笑顔。
「でも、僕にはもう、この世界で生きていく気力がない。穂乃果さんのいない世界で、僕は生きていけない。だから、精いっぱいの、八つ当たりをしたんだ…」
肩の力を抜き、静江の方を見る。
彼女は目に涙を浮かべて、嗚咽をこらえていた。
「静江、僕はもう、お前と生きていけない。僕のことは忘れろ。きっと、翔太にいが助けてくれる。夏帆とも仲良くしろよ。喧嘩、すんなよ。だから…」
「私は!」
僕の言葉を遮って、静江の金切り声が響いた。
顔を覆った静江は、血だまりの上に膝をつく。
「私は…、おにいちゃんに、復讐なんてしてほしくなかった…」
「…僕はもう、生きたくないんだ」
「私は…、おにいちゃんと、生きていきたかった…」
その言葉に、はっとする。
蹲り、泣きじゃくった静江は、おぼつかない言葉を紡いだ。
「今日ね…、私の、誕生日だったの…。みんな、悲しんで忘れてたけど…、私の、誕生日だったの…。翔太にいさんは、警察に行ってるし、夏帆ねえちゃんも、一緒についていってるから…、だから、せめて、おにいちゃんと、一緒に、祝ってもらおうと思って…。でも、そんな雰囲気じゃないから…、せめて、ケーキだけでも、食べようと思って…、おにいちゃんのために、ケーキを、作って…、穂乃果さんに、作り方、教えてもらったから…」
そこで、静江の言葉が途切れる。
血だまりに額を押し当てた彼女は、爆発するように、叫んだ。
「みんなで! 助け合って! 生きていくって! 決めたじゃない! なんで一人で、抱え込んだのよ! なんで! なんで一人で! なんで! なんで!」
そして、慟哭した。
「あああああああああっ! ああああっ! あああああああっ! ああああああああああああああああっ! ああ!」
「…そうか」
静江の言葉を聞いた僕は、ぽつりとつぶやいた。
「…悪かった」
そうか、すっかり忘れてたよ。
今日は、静江の誕生日だったな。そうだそうだ。スケジュール帳にしっかり書いたはずなのに、いや、そもそも、家族の大事な日なのに、すっかり忘れていた。
僕はふらふらとした足取りで、静江に近づいた。
「誕生日のこと、忘れてて、悪かった。本当に、ごめん」
静江が、顔を上げる。
「…じゃあ、おにいちゃん、一緒に…」
「ハッピーバースデー、静江」
「…ケーキを」
「愛してる」
静江に精いっぱいの謝罪と、愛の言葉を口にした僕は、次の瞬間、刀の切っ先を使い、自分の喉をかき切った。
頸動脈が裂け、そこから、殺人鬼のどす黒い血が、爆発するように吹き出す。
噴出した熱い液体は、瞳孔を見開いた静江の顔面に掛かった。
「あ…」
彼女の顔が、絶望に歪んだ瞬間、僕は、ぐらり…と姿勢を崩し、その場に倒れ込んだ。
「ああああああっ! あああああああっ! あああああああああああああああああああああああああっ! あああああああああっ!」
静江が慟哭し、僕の上に覆いかぶさった。
「ダメ! だめだめ! ダメ! あああああっ! あああああっ!」
冷たい手で、僕の傷を抑える。だが、その指の隙間から血が噴き出し、みるみると彼女の身体を濡らしていった。
「やだ! 死なないで! お願い! 死なないで! 死なないで!」
彼女の懇願は、僕に届かない。
身体からみるみる血が抜けて、その声も、水の中に飛び込んだみたいに、聞こえなくなった。
身体が、冷たくなっていく。
眠たくなっていく。
僕の人生は、なんだったんだろうな?
蔑まれて、蔑まれて、殴られて、蹴られて、泣いて、笑って、蔑まれて、虐められて、捨てられて、殴られて、蹴られて、笑って、泣いて、蔑まれて、蔑まれて、蔑まれて、蔑まれて、虐められて、殴られて、愛し合って、愛し合って、幸せで、愛し合って、殺されて、殺した。
本当に、滑稽な、物語だ。
そうして、幸田宗也は死んだ…はずだった。
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